赤軍派の異空間

筆者は連合赤軍事件を描いた「レッド1969~1972」というマンガが好きで、事件の全体像を把握しようと永田洋子・坂口弘両死刑囚と植垣康弘元受刑囚の著書や、受刑後のその後の動向を探ったルポ本に赤軍派の元メンバーたちの同人誌「証言」をわざわざ香港まで取り寄せて読みふけっていた時期がある。

いかなる理由であれ同志殺しなど認めることは出来ないが、赤軍派に馳せ参じたメンバー達はかなり純粋かつ善良な若者たちであり、銀行強盗や爆弾作りといった犯罪行為をしていながらも大学のテニスサークル的な連帯意識と奇妙な明るさを行間から感じ取ったのだが、彼らの不運はチャールズ・マンソン的な人物をリーダーに戴いた事である。

森恒夫の卑屈さと尊大さを併せ持った複雑な性格については多くの本で書かれているのでここでは触れないが、田宮孝麿と重信房子がそれぞれ海外に逃亡した後に日本国内に残された赤軍派メンバー達はその当時何をやっていたのか?といった証言を調べている内に、赤軍派メンバーの現在の姿が段々と見えてきたのだ。

森恒夫と重信房子が中央委員だった頃に格上の政治局員だった堂山道夫は情報システム企業の経営者、物江克夫はヤマギシ会的な共同農場の所長、上野勝輝は医師で、他の政治局員にも左派バリバリの大学教授や老人ホームの理事などその生業には何となく若かりし頃の臭いが嗅ぎとれたのだが、思ったとおり階層が下に行けば行くほどその臭いが強まっていったのだ。





例えば持原好子という女性である。彼女は榛名ベースで同志たちに殺された新藤隆三郎の恋人で、「レッド」では九重という名で登場する元芸者の革命家という変わり種だが、彼女は現在大阪に在住して反戦・反核大会など左翼イベントの賛同人に名を連ねていたのだが、この賛同人リストのは赤軍派の名前がぞろぞろ出てきたのだ。

新開純也に山本純、中野マリコに若宮正則と三浦俊一といった面々である。彼らは「○○を許さない市民ネットワーク」的な市民団体の代表者という肩書を持っているのだが(会員がるのかどうかはさておいて)、彼ら一人一人の生業を見ていくと奇妙な事に「西成」「ドヤ」「医療」に関係する人間がやけに多いのだ。

例えば三浦俊一は日本最大のドヤ街である釜ヶ崎日雇労働者組合の副委員長を務めていて、ここは賃金闘争という表向きの仕事とは別に西成にいる底辺労働者に対して生活保護や医療保険を手配する対行政窓口の役割を果たしているのだが、まあもっと正確に言えば貧困ビジネスの元締め、受益者なのである。

マンガ「なにわ金融道」を読まれた方なら、ホームレスになった元教頭がドヤ街に住み着き、如何わしい団体のおかげで生活保護と住処を手に入れるが、ある日突然病院に送り込まれて全く意味の無い治療を施され、またその医療に反対した隣のベッドの病人は謎の治療を受けて廃人化されてしまう話を覚えておいでであろう。この如何わしい団体がここである。





慢性的な赤字に苦しむ病院に生活保護の人間を送り込んで保険ギリギリの高額医療費を税金から負担させる、病院は組合とヤクザにキックバックを払う、地方議員が上前をピンハネする代わりに行政に圧力をかける・・。これが医療を使った貧困ビジネスの構図だが、巷の噂だと中核派や創価学会と並んで赤軍派もここに一枚噛んで資金源にしているそうである。

さてこの三浦俊一なる爺さんは2009年に矢島祥子という女医が木津川で水死体になって発見された事件で「自分は女医の恋人だった」と言って遺族の前に出現し、捜査かく乱を図って死因を自殺に持ち込もうとするなど変な動きをしているのだが、この奇妙な男はさらに奇妙なところに顔を出しているのだ。

よど号赤軍の機関紙に登場して小川淳(ペンネーム。本名は赤木邦弥)というピョンヤンの事務所長兼番頭役と対談しているのだ。この男はよど号メンバーより10歳以上若いのでハイジャック犯ではないのだが、赤城志郎の妹と結婚しているのと、1980年の有本恵子拉致事件で後方支援役を務めた疑いが濃厚な危険人物である。

関東学院大学全共闘の議長で元赤軍派、現在はドヤ街のピンハネ元締めの三浦俊一がなんで北朝鮮の手先と・・と思ったが、これは昨日の日記の通り一旦はピョンヤンとパレスチナ、国内残留派とバラバラになった旧赤軍派も世間のサポートと資金が不足したことからピョンヤンにいるよど号赤軍との共闘関係を築いたか、或いはその下にかき集められていると考えた方がよさそうである。





女医が殺されたのは貧困ビジネスの証拠を握ったからだ・・との噂もあるが、こんなのは誰だって知ってる事だから組合やヤクザに院長らがわざわざリスクを冒すとは思えない。しかし実はそこに旧赤軍派と北朝鮮が関係していて・・となると一気に話は変わってくるような気もするのだれども、でもまあこれは筆者の考えすぎだろう。

しかし昨日の辻元清美の支援者である高槻市の精神病院は院長から看護人まで押しなべて元赤軍派、あるいは今でも後継団体のメンバーで、この病院には昔から貧困ビジネスとの黒い噂が付きまとっている・・と聞くと、やはり旧赤軍派は貧困ビジネスを資金源にした利権団体に堕してしまったのではないか・・との思えてしまう。

まあ人間生活が懸かれば正義もクソも無いから変節するのは仕方ないけど、今から半世紀近く前に本気で革命を志した青年たちがいまや社会保障をメシにタネにする寄生虫と化してしまったとしたら、そしてその背後にいる国民を平気で餓死させるような異常国家に貢献していたとしたらなんとも皮肉な事である。

この連中はそろそろ古希を迎えるころで、あと20年もすれば全員もれなく鬼籍に入るが、あの世に辿り着いたら森恒夫のパラノイアのおかげで殺された同志たちにどういう申し開きをするのだろう。それとも彼らがこれまでずっとやってきたように、もしくは森恒夫に従って生き残ったお利口さん性質の様に何もかも否定してただただ沈黙を守り通すのだろうか。






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辻元清美と北朝鮮の紐の結び目

森友問題で名前が出るやほぼ毎日ブログを更新していた辻元清美が急に沈黙してしまった。何もかも否定して穴倉にこもり、ほとぼりが冷めるのを待つ戦法なようだが、火急を告げる北朝鮮の指示を受けて今回の国有地払い下げ疑惑に火をつけ、安倍政権に揺さぶりをかけた張本人がこの女であることは多くの国民がとっくにお見通しである。

辻元清美の今までの言動を見聞きすれば北朝鮮との特別な関係は直ぐに読み取れるが、両者の紐の結び目がどうなっているのかを見てみると、本人自身が帰化朝鮮人であるという根強い噂や(筆者はこれは間違いだと思っている)関西生コンやパチンコ屋といった在日スポンサーの存在とは別に赤軍派の影がちらつくのは割合と知られた話である。

三一書房という左派系出版社を営んでいる辻元の内縁の夫はかつて重信房子がリーダーを務めるアラブ赤軍(正式名称は日本赤軍だが組織の性格を正確に表すため便宜上こう書く)のメンバーで、スウェーデンから好ましからざる人物として強制退去させられた事があり、また辻元を旧社会党にリクルートして政治指南役だった五島昌子(土井たか子の秘書)は若いころから赤軍派の活動家であった。

それと辻元の地元支援者でもある高槻市の私立精神病院は院長はじめ職員にいたるまで大多数が赤軍派の現役活動家であり、2000年に大阪・高槻市に潜伏中に逮捕された重信房子を密かに支援していたグループも辻元清美の後援会ともかなり重複しているといった「奇妙な一致点」が幾つもあるのだが、やはりと言うか大手メディアはこの事を封殺しているのである。

さて筆者より年上の方なら「赤軍派っててんでバラバラになったんじゃないの」と疑問を持たれたに違いない。日本国内の過激な学生集団だった「共産主義者同盟赤軍派」が大菩薩峠での一斉逮捕後に瓦解し、日航機をハイジャックして北朝鮮に亡命した「よど号赤軍」とパレスチナに渡った「アラブ赤軍」、そして国内に残って別党派を組んだ「連合赤軍」の3つの組織へと分裂し、重信房子は有名な「さらば同志諸君」と決別宣言を出しているからだ・





実は筆者も3つの派閥はお互いそっぽを向いていると思っていたのだが、アラブ赤軍のメンバー和光晴生やよど号赤軍へ近づいて彼らの肉声を見聞きした高沢皓司の著書を読んでみたところ、同志殺しで内部崩壊した連合赤軍はさておいて、中東和平の進行で居場所が狭まりつつあったアラブ赤軍をよど号赤軍が組織的に取り込んだ気配がうかがえたのだ。

それは1980年あたりの事で、これまで北朝鮮に留まって金日成主義の学習ばかりさせられていたよど号赤軍メンバーが突然ヨーロッパに出現し、ウィーンに反戦反核運動を組織したり、旧ユーゴスラビア国内に拠点を設けるなど外向きな姿勢に転じたのだが、どうやらこれはパレスチナからヨーロッパの左翼運動へと軸を移していったアラブ赤軍と共同歩調を歩んでいたようなのである。

しかしよど号グループのリーダー田宮孝麿は「ヨーロッパでの活動は失敗だった。自分たちの受け皿になってくれるのは結局は日本人だけで、日本人が一番多いのはヨーロッパじゃなくてやっぱり日本なんだ」と当たり前すぎると言うか意味不明な事を高沢皓司に語っているのだが、気になるのはその「日本国内への転換」時期がちょうどピースボート立ち上げの頃と重なるのである。

ピースボートの陰には過激派や訳の分からない団体が控えていることは当時の大学生の間では有名だったし、経済制裁と不作により北朝鮮が飢餓に苦しんでいる真最中に万景峰号をチャーターして北朝鮮を訪問したりと、両者が只ならぬ関係にあることは良く知られた事だが、筆者はピースボートは最初からは北朝鮮の肝いりで作られたのではないか・・と思っているのだ。

もちろん当時の辻元清美もピースボートも吹けば飛ぶような微弱な存在だし、北朝鮮が後押しした団体は他に幾つもあるのだろうが、過激な武力闘争では全く歯が立たないことから左翼が人権や環境、国際協調と言った市民運動へと路線転換してったのが1980年代である。北朝鮮がこうした日本国内の流れに目を付けるのは当然であろう。





そしてこういう団体が学生たちが集まってワイワイ騒いでいる様な柔らかい段階で北朝鮮が呑み込む場合、日本国内にある最大最強の子飼いである朝鮮総連の人間を使うよりも、10年前に日本の大学の自由な空気を吸っていて、更に一部の左翼学生からは神の様に崇められる赤軍派メンバーを使った方が事がスムースに運ぶような気がするのだ。

よど号赤軍のリーダー田宮高麿は「北朝鮮では正直肩身が狭い」と常々こぼしていたそうだが、客観的によど号グループの能力を見た場合、彼らに出来そうなのはもともと同じ釜の飯を食ったアラブ赤軍と日本国内にいる赤軍派残党、それと何も分からない青二才の学生を篭絡する事くらいなように思えるのだが、その努力の結晶として誕生したのが辻元清美なのではないか?というのが筆者の推測である。

ちょっと話が長くなりすぎたのでもう一回整理すると、筆者が言いたいのは他の左派系議員と違って辻元清美は最初から北朝鮮の子飼い、つまり旧ソ連や中国に奇妙な人権団体の息がかかっていない完全なる北朝鮮のロボットであり、社民党を見捨てて当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった民主党(当時)に移ったのも主義主張の違いではなく、日本の政策に北朝鮮の意向を反映させるためだけだったからだろう。

米韓合同軍事演習の真最中に日本の国会を空転させる、安倍晋三の息の根を止める、日本会議のイメージを悪化させて右傾化を妨害する。北朝鮮が辻元清美に粗探しをさせたのはそうした理由だろうが、いくら北朝鮮からカネと票の支援を受けていたとはいえ、こんな指示に素直に従ってしまうとはこのバカ女は一体どういう感覚をしているのだろう。

それと赤軍派の残党を調べてみると、もともと関西から発祥しただけあって京都と大阪に居住している人間がやけに多いのだが、彼らのほとんどは平和や人権などのNGOや医療機関、西成の貧困ビジネスに関係していて何ともなく関西独自の深い闇を感じ取ったのだが、これを書くと長くなるので今日のところは一旦辻元清美の悪口だけに収めて筆を置くことにします。






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早く朝鮮半島で戦争を始めろ

金正男暗殺と朴槿恵逮捕など風雲急を告げている朝鮮半島情勢だが、親北派ムンジェイン候補の当選がほぼ確実な事とトランプ米大統領の支持率低下も相まってどうやら北朝鮮への軍事攻撃が近々実施される可能性が高くなってきたらしい。

戦略爆撃機あるいは巡航ミサイルによるピョンヤン中枢への爆撃が実施され、金正恩の生存が確認されれば特殊部隊を投入して首を切る計画らしいが、最先端の電磁波兵器を使ってもピョンヤン中枢から38度線にずらりと配置されている砲兵部隊への通信回線は完全に遮断できないそうだから、数千発の砲弾がソウルに雨あられと降り注ぐことは防げないそうである。

朝鮮民族がお互いに殺し合って滅びていくことは人類の衛生上の理由から大変好ましい事態だけれども、困ったのはちょうどこの時期筆者ら夫妻は日本に遊びに行くついでに韓国大統領選挙のタイミングに合わせて5泊6日でソウル行きを予約してしまった事なのだ。

バカな民族が自分たちの意思で滅亡に導くリーダーを選ぶ日。史上まれに見る愚かな選択が勝利し、路上で歓喜の声をあげながら踊り狂っている下等生物の異常生態を眺めに行くためにわざわざデモが頻繁に行われるエリアのホテルを取ったのだけれども、状況を考えるとどうやらキャンセルするしか無さそうである。

ピョンヤン攻撃のタイミングとしては4月6日の米中首脳会談直後と、米韓合同軍事演習が終わる4月30日、そして大統領選挙がある5月9日の3つの候補があるそうだが、筆者が予約したのは5月8日のフライトなので、米軍による攻撃が最後のタイミングになるとキャンセル料がたんまり取られてしまうのである。

もちろん最初の2つのタイミングで戦争にならなければ予定通り大統領選挙前日にソウルに飛ぶという選択肢もあるけれども、モスクワの劇場占拠事件の際に果敢に現場へと向かった筆者と言えどもさすがに寄る年波ゆえ砲弾が降り注ぐ戦地には気おくれするし、何より女房と言いう足手まといがいる以上これは無理である。

かくなる上は北朝鮮が反撃しソウルが焦土と化せば流石に航空会社やホテル相手にゴネにゴネればキャンセル料も下がるだろうから(それ以前にホテルはもう無くなっているだろうから)、筆者としてはアメリカはいずれ攻撃してくるんだから、相手の動きを待ってないで金正恩は明日にでもソウルを核攻撃しろ!と願うばかりである。






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崩れていく脳内幻想

大学時代に良くバンコクに遊びに行っていた筆者は毎晩のようにホアランポーン駅前に出向いては、どぶ河の脇にゴザを敷いて安酒とソムタムという辛いサラダというツマミを出す通称ゴザ酒場に飲みに行っていたのだが、筆者はそこで働く女の子たちにかなり憐憫の情を抱くようになっていった。

数十人いる彼女たちはタイ東北部ロイエット県のスワンナプームというド田舎村の出身で、農作業の手が空いた時期になるとバンコクに出稼ぎに来るのだが、ふだんゴーゴーバーや路上売春婦なんてすれっからしのタイ女ばかり相手にしている筆者にとってゴザ酒場の娘たちは別の意味で新鮮なのだ。

すご~く純朴なのである。一応酒が入るからこっちもタイ語で猥談なんかするのだが、そうなると顔を赤めてしまうしお触りなんてトンデモナイ世界なのだ。それに彼女たちのエピソードを聞けばこれがまあ赤貧洗うが如しの世界だから(当然全員とも小学校卒業である)、筆者など生計の足しになればと言われた料金の倍くらい払っていたのだ。

ただ筆者も就職すればそうそうバンコクには行けぬし、彼女たちも田舎娘らしく22~3歳になれば田舎に帰って結婚しお母さんになってしまったのだけれども、中にはゴザ酒場に客としてやって来た日本人と結婚する娘も出てくる訳で、数年後に日本国内から投かんされたらしき手紙をひょっこり受け取ったりする事も何度かあったのである。





ニーもその一人で、平仮名で書かれた手紙には某都市の住所が書かれてあって、自分がバスの運転手と結婚した事、小さな娘が一人いてもう一人妊娠中である事、夫の両親と同居中である事など近況を知らせてきたのだが、筆者はその時「日本で大丈夫かなあ」と不安に思ったのである。

というのはニーはゴザ酒場にいた女の子の中で一番純朴で、それに何となく暗い影が付きまとう薄幸そうな雰囲気を漂わせていたからだ。「バンコクは嫌い。田舎に帰ってお母さんと暮らしたい」と涙を流していたニーの姿から、日本に来ても近所に馴染めず疎外されているニー、姑にいじめられているニーの姿が思い浮かんだのだ。

しかし筆者はその時香港赴任を直前に控えていたし、それに飛行機で片道2時間近くかかる某都市など仕事でもプライベートでも行くつもりはなかったから適当に返事だけ書いて後はナシのつぶてになってしまったのだが、今から数年前にフェイスブックの友達リクエストにニーの名前があるのを見つけたのである。

実に20年ぶりである。早速リクエストを了解してフェイスブックの繋がりが出来たのだが、そこにアップされているニーの写真を見た時に筆者はちょっと驚いてしまったのだ。どうも洒落たカクテルバーらしき場所で白人男性とかなりファッショナブルな若い日本人女たちに囲まれたニーがにんまりと笑っていたのである。





「昨日は盛り上がっちゃったね。来週もまた飲もう!」といったコメントが羅列されている処を見るとニーはバーで働いているのではなくバーの常連客のようだ。それと他の写真もイタリア料理店やフレンチカフェとか、茶髪にド派手なアクセサリーを身に着けた二人の女の子(どうも娘らしい)とのプリクラなんかがアップされていたのである。

な、なんだこれは?と戸惑う筆者。言っておくがこれが普通の日本人の女の子なら別になんとも思わないが、筆者の記憶では当時のニーは40歳を超えていたし、それにバンコクで「さびしい、つらい」と涙を流していた頃はもちろん化粧ゼロで服装も穴の空いたTシャツにジーンズ、それとサンダル履きである。

場末のスナックのホステスになっていて労務者らしきオヤジに抱きつかれている姿ならまだしも、六本木や麻布十番的なバーでカクテルグラス片手に談笑しているニーの姿が頭の中で連結しないのである。そう思ってる最中にニーからメッセージが来たのだ。

「久しぶり!元気してる?」と流ちょうな日本語で書かれたメッセージには離婚して二人の大学生の娘と一緒に暮らしている事、仕事は整骨院チェーンのマッサージ師をしているが給料が安いから大変な事などが書いてあったが、最後の方に「最近は英語の勉強がてら外人が多いバーで飲み歩いている内にオーストラリア人の恋人が出来た」と書かれてあったのだ。





なるほど写真を見るとこの白人のオヤジと手をつないでいるシーンが頻繁に出て来るし、それにシンガポールやドバイに旅行したらしき写真にも(かなり高そうなホテルに泊まっている)白人オヤジがちらりと映っているのだが、多くの写真を見ているうちに筆者の中で一番違和感が膨らんでいったのは服装やカネのかかった店よりもニーの立ち振る舞いが板についていたことである。

なんか君島十和子とか賀来千香子みたいな「綺麗な40代セレブ」になってるのだ。ただニーの離婚した旦那はバスの運転手だし、ネットで調べたら職場の整体院チェーンも見た目は立派だが料金はそんなに高くないからセレブと言われるほどの給料をもらっているとは思えないのだが、彼女の表情には今の人生が楽しくて仕方が無い的な輝きが感じられたのだ。

あの地べたに座ってパパイヤの皮を剥いてたニーがカクテルバーの常連に・・とそのギャップの大きさに唖然としたが、しかし人間30年も経てば性格も相当変わるものだし、それに当時のニーの「私は弱いから守ってね」的なキャラクターは幾分、いやかな~り作っていたのではないか・・との疑念が頭を過ったのである。

それで噛み砕けない思いを当時一緒にゴザ酒場で呑んでいた友人にぶつけてみたら「そりゃお前さんが可哀そうなゴザ酒場の女たちって虚像を作り上げて、そこに感情移入していただけだよ!」と一笑に付されてしまった。確かに・・日本で生活保護を受けています・・とか、結核でサナトリウムにいます・・と書かれていえば何の違和感も持たずにすんなり飲み込めたような気がするな。






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森友ランドの先住者たち

大坂・豊中市の森友学園疑惑が面白くなってきた。元解放同盟運動員でしばき隊の菅野完という如何わしい男に続いて左のムネオ辻元清美代議士が登場し、関西生コンというこれまた毒々しいかつ生々しい団体との癒着とスパイとして送り込んだ男の不審死という事件マニアにとっては実にたまらない展開だからである。

今後は在日に同和、山口組、レイシスト集団に創価学会、釜ヶ崎日雇労働組合に都島のメンヘラ女とヒョウ柄オバちゃん軍団なんかも登場してオール関西スキャンダルへと進化し、辻元清美が記者たちの目の前で労務者に刺殺される、松井知事が筆跡のおかしい遺書を残して府庁舎から飛び降り自殺するなどドラマチックな展開へと移ってもらいたいものだ。

というのは森友学園の超安値での土地取得も別段それほど珍しいことではなく、籠池理事長を穿り返しても楽しい展開はもう望めないからだ。隣の国有地も表向き14億円だかの値が付いたが、払い下げを受けた豊中市が実際に払ったのは2千万円だかで、森友学園同様に土地改良に伴う諸費用をたんまりと差し引かれるのはこの辺りじゃ当たり前なようだからである。

どうも今までの偏向報道は辻元清美と左がかったメディアが北朝鮮の指示を受けてでっちあげたようなのだが、それはさておいて肝心の国有地も(政治家や人権団体の手を借りる必要があるが)思いきり値引きを受けないと払い下げを受けた事業者にとって採算的に釣り合わないのは大阪近辺じゃ常識だった様である。





あそこはゴミ捨て場だった!10メートル掘っても生活ごみが出て来る!もともの沼地で土地が湿ってるんだ!伊丹空港の着陸ルートの真下にあるから騒音が酷い!と言った地域住民のコメントからもそういった特殊事情がうかがえるが、じゃああの土地は空港設立前からずっと空き地だったんだな・・と思っていたら・・・、そうじゃなかったのである。

昔の航空写真を調べてみたら、既にそれをご自身のブログでアップしている方がいたので見てみたところ、なるほど1961年には高速道路が建築途中ではあるものの辺り一帯は畑で、現森友学園の北半分にはどうもゴミらしきものが積まれている気配がうかがえるのだが、問題はその後である。

1966年に何やら建物が出来始めて1971年には小さな家と長屋が密集して建てられているのである。1975年の時点でもそれは同じだが、よく見ると飛んでいる飛行機が映ってここが飛行ルートの真下であることが見て取れるのだけれども、この区域内の道が直線で無い事からどうも計画的に立てられた住宅地ではない様に思える。

そして1981年から密集していた家が歯抜けの様に消え始め、約20年以上経過して更地になっているのだが、おそらくこの期間に区画整理のお達しが出て住民は立ち退いていったのだと推測するのだが、ふとここで「ここに住んでいた数百人の人たちは一体どんな人なんだろう?」との疑問が筆者の脳裏に浮かんだのだ。





伊丹空港が開港したのは1958年でジェット機が乗り入れたのは1964年、その頃にこの一帯はまだ畑で家なんか建っていないのに、空港騒音が騒がれ始めた時代になってからわざわざ飛行ルートの真下に細々とした家が密集する様に建てられてるのは何か変ではないだろか?

この家が借地の家に建てられていたのか、あるいは土地ごと分譲されたのかはフィリピンにいる筆者には調べようがないが、たった10年住んで立ち退いた家もあることを考えるとここは沖縄の米軍基地とか大企業の工場周辺でよく見かけるスラム、あるいは掘っ立て小屋を建てて騒音をエサにカネをたかるプロ市民の住処だったのではないだろうか。

それに筆者は暇なので動画サイトで森友問題をしょっちゅう見ているのだが、どのテレビ番組も「あそこはゴミ捨て場だった」と言うだけで、1970年代には小さな家が密集していたという話は全然出てこないのだ。これはなんか変じゃないか?

あそこはややこしい場所なんだ・・とか、関西特有の根深い問題が関係してて等々の伝聞情報はネットで見かけるが、具体的にどういう人たちが住んでいて、どういう経緯で立ち退いたのか、いくらで買っていくらで国に買い上げてもらったのか?は見えてこない。よってもしもあの場所に住んでいた方がいたら事情を教えていただきたい。






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