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旅先との距離を縮めるもの

筆者は子供の頃の経験から床屋が嫌いな人間である。赤ん坊の時から通わされたバンビと言う店は余りにも腕が悪く、短く刈り込まれた髪の毛が首筋を通じてカバーの中に入り込んでチクチク苛まれた事は今でもトラウマとして残ってしまったため、本当に冗談ではなく床屋の前を通るだけで何だかイヤーな気分になってしまうのだ。

こういう話をすると友人知人たちからは「お前は髪を切った後の爽快感が無いのか?」と笑われてしまうのだが、もちろん筆者もあのスッキリ感は好きなのだけれども、そうなるまでのプロセスと何より髪の毛が頭や体に付着しているんだ・・という感覚が嫌で、散髪後にはまっすぐ家に帰ってシャワーで洗い流さないと気が済まない性質なのである。

ところが不思議な事に筆者がかつてした旅を思い出してみると案外と床屋での体験が微笑ましい体験として甦ってくるのだ。最初の旅のボンベイの案外と綺麗な理容室やパタヤの如何わしい床屋、それに香港に赴任したばかりの頃に通ったモンコックの銀河サウナに付設した理髪室やフィリピンの田舎町の大衆店などだが、ここで店員たちと交わした会話や彼らの表情などは案外とよく覚えているのである。

オレは今でも床屋は嫌いなはずなのに何で異郷での体験は案外と肯定的なのか?と不思議に思ったが、昨年2か月ほど日本を旅した際に長崎の床屋での事を思いだした。筆者は高校の修学旅行で長崎に行ったことがあって、その時の思い出があまりに素晴らしいので30年後の再訪には全くもって何もかも失望させられてしまったのだが、西浜町の床屋に行って急に気分が変わったのだ。





髪を切ってくれたオバちゃんと交わしたのはハッキリ言って何ともない会話である。しかし彼女にシャキシャキと髪を切られているうちに筆者の中で自分がよそ者から地元に居ついた人間であるかのような幻覚に捕らわれたのだ。言い換えるならば観光客としての浮草のような存在から長崎のごくごくありふれた日常生活への突入である。

北杜夫に「パリの床屋教授どの」という微笑ましいエッセイがあるが、確かに床屋に行くと言うのは現地の人たちとの距離を縮められる数少ないチャンスの一つである。それともう一つ床屋に入る前と出てきた時では自分の外観が変わっていると言う一種のメタモルフォ―ゼ感が何となく影響しているではないかと思う。

異邦人から現地の生活に接したというメタモルフォ―ゼ、あるいは鏡を見つめ続けることで自分自身の浮遊感をじっくりと定着させていくメタモルフォーゼ。前述の様に筆者は散髪が嫌いなので深く考えることはしないが、床屋には何だか人の心に微妙な変化を生み出す力があるように思える。

大っ嫌いな床屋だが異国で行けば案外と楽しい思い出として残る。筆者はこの脳内の化学変化方程式の構造は判らないが、ただいま筆者がいる沖縄に対してほとんど好意的な意見を持っていないのは厳然たる事実・・。だったら近所にある如何にもオキナワ的な床屋にでも行ってみるか・・。せめてその思い出くらいは残しておくためにね。






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ローマの休日でアン王女が床屋で髪を切っていて、
鏡を覗き込む表情がどんどん生き生きしてくるのを思い出しました。
1日だけの地元民チェンジは切なかったです。

 

フィリピンの散髪、カミソリの使いまわしだけやめてほしい。

ところで今回は、特にエッセイ色が冴えた文でしたね。
俺には書けないな。

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