船場の洋品屋街での昔日の日本を思う

大阪に来ていろんな店を回ったが、洋服やアクセサリーを買う場合に女房の一番の気に入りは船場センタービルという衣料品の卸売店が集まった建物である。ここは東京・御徒町と同じような役割をしている場所なのだが、アクセサリー400円、ブラウス470円などと途轍もなく安いのだ。

このビルは地下鉄本町駅から堺筋本町の間の1キロの距離に並ぶ10の建物の総称で、合計で800店もの卸店が地下と地上2階の3フロアにかけて軒を並べているのだ。半分以上の店は卸専門だが、それでも3割くらいの店は1個でも売ってくれるし、前述の様に大阪市内の普通の店に比べて半額くらい安いのが魅力である。

「先代のころは外人さんもよう来てはって、ウチも子供ながら店で外人さんのお相手してたんですよ」と言ったのが50過ぎのオバちゃん店主。戦後から70年代まで日本の主力産品は繊維製品であり、とくに大阪の船場はその中心だったから、確かにここには世界中の服飾バイヤーたちが集まっていたはずである。現在では香港のライチ―コック駅の北側一帯がこの地位を引き継いでいる。。

しかしニクソンショックでドルの切り崩しが始まり、1980年代後半のプラザ合意で120円を付けた当たりで日本の繊維産業は壊滅的な打撃を受けてしまったから、外人が来たのはもうかれこれ30年近くも前。そして日本に溢れる中国人達もノンブランドで低価格な服飾には目もくれないから船場センタービルにはウソのように姿が見えない。

むかし外人の相手をしてたか・・。そう思った時に筆者の子供の頃の光景を思い出した。東京都下の自宅の近くに従業員数十人ほどのガラスレンズ工場があって、そこには良く外人さんたちが来ていたのである。そして外人たちに説明をする工場のネーちゃんが何やら面妖な言葉を喋っているのを筆者ら馬鹿ガキは不思議な目で眺めていたものだ。





今考えればあの言葉は英語で、それにあの当時に町工場で働いている社員は商業高校か工業高校卒の人たちばかりだったから流暢な英語では無かったに違いないが、それでも外人相手に丁々発止のやり取りをやっていて、それに工場もちゃんと生き残っていたのだから今考えるとなかなか大したものである。

あれから30年経った日本では、例えば筆者の働いていた会社などは東京外語大や上智に津田塾を出た女たちで溢れていたけれど、みんなお上品と言うか金魚みたいに生命力の弱い生き物になってしまい、大手顧客と1%の値引き交渉に名乗り出るような女は一人もいなかった。はっきり言って中国女と伍せるような女性を日本が生み出すのは無理だと思う。

まあ日本女性にばかり文句は言ってしまったが男の方も五十歩百歩で、日本の大企業の問題とは文系出身の社員が小難しい経営用語を披露する事にばかり長けてしまい、1ドルの卵を路上で売ったり梅田駅構内の僅か1坪の店で何を売れば儲かるのか?といった基礎的な能力が大きく欠落してしまった事に原因があると思う。シャープや東芝はこの傾向が強いのではないだろうか。

筆者はユダヤ人のお客から「オフィスの机から世界を眺めることほど危険なことは無い」「ストリートに経っている人間が大手を打ちのめす」としつこいくらい言われた事があるのだが、どうも日本はプラザ合意のあたりから頭でっかちになってしまい、そして円高で現場が東南アジアや中国に出て行って空洞化してしまったあたりから崩壊の兆しが出ていたに違いない。

さて船場から話が随分とずれてしまったが、言いたかったのは船場に若い世代のユニークなデザイナーや経営者が店を開き、昔の様に外人バイヤーが集まってくるような日本になってほしいという事である。でもそうなっても店の奥に閉じこもって金勘定だけしているのはダメだよ。常に客から刺激を受けていられるのは店頭だけ・・、だからオーナーが率先して店を仕切りなさい。






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