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Author:ほにょ
生まれつきナマケモノの中年オヤジです。
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関西弁を関東に定着させた開拓者
2015/06/07 00:02:08 |
日記 |
コメント:1件

今から30年ほど前の新宿の狭苦しいパブでの出来事である。大学の同級生である森下という男に「お前は堂々と関西弁を話すべきだ」と酔いに任せて半ば強引に説得していると、この神戸出身の男は「東京で関西弁がこれほど市民権を得ているとは驚いたよ」と嬉しそうに呟き始めた。
この森下君には年の離れた兄がいて、大阪大学を卒業して東京の会社に就職したのだが、入社して最初の会議で「関西弁を喋るのは止めろ!」と上司に諭されてしまい、以来かなり無理して標準語を習得したらしく、哀れ森下君は「いいか!ほんの一言のイントネーションの違いが命取りになるぞ!」と兄からさんざん脅かされていたのというのである。
ところが森下君は運が良いことに、彼が大学に入学する数年前から明石屋さんまや島田紳助が関西弁を駆使してゴールデン番組を席巻し始めていたし、俺たちひょうきん族という人気番組では西川のりおや大平シロー、アホの坂田ら相当大阪臭が強い芸人を散々見させられた東京人は免疫が出来ていたから、森下君が関西弁で何を喚こうが「ああ、あの人は関西の人なんだな・・」程度しか思わなくなっていたのである。
しかし森下君の兄が言っていた事もある面では本当で、その数年前、つまり筆者が小学生の頃に関西から来た転校生は全校生徒から相当バカにされ続けたし、筆者の叔母などはデパートの食堂で関西人の一行と隣り合わせると「いやねえ、あの野蛮人達は・・」とあからさまな差別感をむき出しにしていた。

しかし1980年の漫才ブームを境に関西弁は東京都民にも受け入れられるようになり、それから35年たった現在ではテレビを捻れば関西芸人のオンパレードになってしまったが、この1970年から80年代のほんの数年の違いながら、関西人の立ち位置を飛躍的に広げた人物は誰なのか?という点に関して森下君を囲む席で意外な人物の名が出て来たのだ。
この時森下君は「まったくさんまや紳助のおかげだよ」と言ったのだが、その場に同席していた東京出身の同級生2人がほぼ同時に「それは違う!」と言い切ったのだ。それでこの二人はお互いに目を見回せて「じゃあ君から答えをどうぞ!」と譲り合ったのだが、その時に同じく東京出身の3人目の級友、つまり筆者が「あのねのねだろ!」と口出しをしたら、二人とも「そうだ!」と答えたのだ。
「あのねのね」のとは京都産業大学出身の清水クニアキと原田伸郎のフォークコンビ兼お笑いユニットの事なのだが、この名前を知らない人も多いだろうし、仮に知っていたとしても「なんでそんなマイナーな芸人なんか・・」とお思いだと思う。仮に筆者が10歳年上なら、そして東京圏出身でなければ間違いなく皆さん同様に否定的な意見を言ったに違いない。しかしもしも筆者と数年くらいしか年齢の変わらない東京人で、子供の頃に歌番組を良く見ていた方なら、今この段階で筆者が言っている意味を直ぐにご理解いただけたと思う。
あのねのねは当時テレビ東京で放映されていた「ヤンヤン歌うスタジオ」というバラエティ番組のメインキャラクターで、そこにはピンクレディーや松田聖子、田原俊彦ら当時人気絶頂だったアイドルたちが(ちょっと今では考えられないくらい)毎回大量出演していたので、筆者らミーハーなガキどもは毎週欠かさずこの番組をみていたのだが、筆者には歌手たちよりもあのねのねが関西弁で繰り広げるショートコントがこれが大変に面白かったのだ。

時系列的に言うとさんまや紳助が東京のテレビ番組の漫才コーナーと言う狭い枠からバラエティータレントとして活躍し始めたのは1981年だが、ヤンヤン歌うスタジオはその4年前から始まっている。もちろんそれ以前に漫画トリオや桂三枝に桂文珍、月亭八方に山城新伍、それに横山やすしが出ていただじゃないか!という意見もあるだろうが、この人たちは筆者らガキにとっては相当おじさん臭かったし、何より関西特有のくどさが前面に出ていてとてもじゃないが湯引きしないと食べられなかったのだ。
しかしあのねのねの二人は若かったし、若手アイドルたちのお兄さんといった雰囲気がにじみ出ていて親しみ易く、なによりも関西特有のえげつなさがが殆どしないから、筆者は彼らが関西弁で繰り広げるコントを何の拒絶反応も無く見続けたのだ。そして数年後にあのねのねよりも脂臭い関西芸人が東京に押しかけても、あのねのねで培われた耐性のおかげで割と彼らをすんなりと受け入れることが出来たのである。
しかし残念ながらあのねのねはヤンヤン歌うスタジオ以外の番組を持てるほど人気が伸びず、そしてひょうきん族出演の芸人たちに道を譲るかのように表舞台から消えてしまったが、1970年代後半の数年間にまだ子供だった東京人に関西弁の地ならしをし、ダウンタウンら90年代の関西芸人の大躍進の下地となる20代の観客層を作ったことは確かなのだ。
しかしネットでいくらあのねのねの事を調べても彼らのことは殆ど書かれておらず、それに見つけたとしても単なる一発屋的な記述しか見当たらない。歴史は不公平に出来ているとは言うが、あれだけ間口を広げたあのねのねが全く評価されないと言うのは余りにも酷い話である。なので筆者も微力ながら彼らの勇姿を讃える意味でこの駄文を捧げたい。


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コメント
No title
2015/06/08(月) 09:03:47 | URL | star child #/9hBKkrU
そんなことが有ったのですか。私は、神戸、夙川育ちですが、家族が標準語喋っていたので、東京でも差別を受けたことはありません。
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