アジアで生きアジアで生命を終えた考古学者

旅先でほんの一瞬出会っただけなのに、いつまでも記憶に残り続けてしまう人物がいる。筆者も学生時代にバンコクや、長じてはパリやモスクワで数多くの記憶に残る人物と出会ったが、残念ながら彼らとは人生のほんの一瞬の瞬間をすれ違っただけで終わってしまう場合が多い。

筆者の場合は生まれつきボヘミアン的な性質を持ち合せていて、世知辛くてせせこましい自分自身の日々から一刻でも解放してくれるような風のような人物にばかりに魅力を感じるのだが、筆者の人生で一番最初の記憶に残る人物はと言うと、1988年の2月の半ばにインド・カルカッタの安宿街サダル・ストリートで出会った西村という名の東大生であった。

この数日前に筆者は生まれて初めての海外旅行、しかも期間は6週間で予算は1日2000円までという貧乏バックパッカーの旅を始めたばかりだったのだが、カルカッタ市内を方々探し回ってやっと見つけたサダル・ストリートのドミトリー(大部屋)で先に陣取っていたのが西村(この時は名前は知らなかった)だったのである。

ボウボウに生やした髭、薄汚れたTシャツ短パン姿に安っぽそうなサンダル、野太い声、そして肝の据わった風な表情、旅の猛者、それが西村の第一印象で、一方筆者はナイキのスニーカーにチノパンなんか履いてるお登りさんだから釣り合いが取れるはずも無かったが、西村は気さくな感じで筆者に話しかけ、いろんなバカ話に興じては大笑いする陽気な男だった。

「オレはアジアを旅してるんだ。一応考古学、と言うより文化人類学を選考してるから、これで飯が食えたら!と思ってるんだけど、でもそれ以上に俺はアジアを旅するのが好きなんだよ!」とまっすぐな表情で言う西村。彼の話を聞いていて気が付いたのは、話の中にHOWEVER(でもとかしかし)が全く無くて、変なてらいやプライドも無くてさっぱりとした性格なのが爽快だった。





そして旅の初心者である筆者にインドネシアやネパールのいろんな面白い話を教えてくれ、さらに人生最初のハッシシ体験を勧め、バッドトリップにならない様に優しくレクチャーしてくれたのには頭が下がる思いだった。一見無愛想でとっつきにくいけれど、精悍で内心には優しさに溢れた男、筆者は自分自身もこういう旅人になりたいな・・と心底思ったのである。

それから数日後に筆者はベナレスへと向かったので西村とはお別れとなったのであるが、実は数か月後にひょんなことから彼と再会することになる。就職試験で第一希望の会社から内定をもらい、泊まり込みの研修を受けていた時に慶応大学の加来という学生がビールを飲みながら俺は中南米を何度も放浪した・・とかいろいろと面白い話をし始めたのだ。

何となく加来の雰囲気が西村に似ていたので「お前に良く似た男にインドで出会ったよ。東大の歴史学の学生でな・・」と説明したところ、加来は「ウン・・」と唸るや、ひょっとしてお前が言ってるのは俺の高校のクラスメートの西村の事じゃないか?と言い始めたのだ。

長くなるので途中経過を省くが、加来がコーディネートしてくれたお陰で数日後に歌舞伎町のビアホールで筆者は西村と再会することが出来たのだ。それでその日は意気投合して閉店まで飲み明かすことになり、電車が無いので西村・加来と高校の同級生で早稲田の法学部に受かりながらちっとも学校に行かないオカポンという男の下宿に押し掛けることになった。

しかし加来はその後すぐに内定をけって花王に入社を決めてしまい、また筆者も酔っぱらっていて西村の住所も聞かなかったために結局それ以降はずっと音信不通になってしまったのだが、その後も筆者が最初の旅を思い出すたびに西村は記憶の向こうから颯爽と現れ続けたのである。





さてあれから27年が経過したつい先ほどのこと、なぜだかインドの旅を突然と思いだしたのだが、実はその時にオカポンという友人が言っていた「西村は西高時代に教師と殴り合いのケンカをしたんだ」という言葉を思い出したのだ。そしてこの西高というのは東京の杉並区にある都立高校の名前ではなく、下関西高という名前だったこと、つまり山口県の出身者だという事を思い出したのだ。

そうか!そういえば西村のオヤジは吹けば飛ぶような小さな貿易会社を経営してるって言ってたな・・、あれは下関の事だったんだ!と思い、つい3時間ほど前に何気なく「西村 下関 東大 文化人類学」という単語をパソコンに打ち込んでみたのだ。別に今さら西村と会っても話すこともないのだろうが、本当に何の気なしにそう思い立ったのである。

そうしたら何と出て来たのだ。西村昌也、東大大学院考古学専攻、山口県出身、1965年生まれ、ベトナム考古学の研究者・・。これだ!間違いない!。そして写真を検索したところ、随分と白髪が混じって上品な身なりになったけど、紛れも無い西村の顔がそこにあった。野郎!やっぱりアイツはアジアの学者になってやがったんだ!と心の中で快哉を叫んでしまった。

奴は筆者の事などとっくに忘れているに違いないが、本当に久しぶりに連絡を取ろうとおもったのだ。しかしウィキペディアに出て来た西村昌也の記述を読んでいると、一番最後に「2013年6月9日、ハノイ郊外をバクニン省方面に向けてバイクで走行中、前方の車に衝突し、病院に運ばれたが死亡が確認された」という記述を見つけた。

別の記事には「自らが建設したハノイ郊外のキムラン歴史博物館のあるキムラン村の墓地に埋葬されました」と書かれていた。そしてベトナム側の考古学界の重鎮たちは「彼は誰よりもベトナムを理解している人です」というコメントの後で、西村がベトナム政府から表彰されたと言う記述で結ばれていた。その瞬間なにかが心の中から抜けて空洞になってしまった。





実は今現在焼酎でベロベロに酔いながらこの日記を書いているのだが、それは自分の感情が上手く整理できないからなのだ。じっさい彼の事を探そうと思えばいつでも出来たのだろうが、筆者はそれをしなかったのだ。だから親しい友人を失って悲しんでいるというわけでは絶対にないのである。だけどこの妙な感じは一体なんなのか、それを正しく表す言葉が見つからないのだ。

筆者にとって西村はほんの一瞬すれ違っただけの関係なのだが、しかし奴は筆者の記憶の中に巣食っていて、いつでも筆者の弛んだ気持ちを引き締める役割を担ってきた何人かの一人であるは確かなのである。それは西村がおそらく筆者が人生で一番最初に出会ったボヘミアンな風格を体現している人物であったからだと思う。俺は心の底ではこうなりたかったのだ・・と。

「俺はアジアが好きでね。一生アジアと触れ合っていきたいと思ってるんだよ」。確かにこの言葉通りに西村はベトナム考古学者として生き、そしてその言葉通りアジアで人生を終え、そしてそこに眠ることにしたのだ。そしてちゃんと自分に与えられた使命を残してこの世を去ったのだ。

筆者も目の前にある昇格を捨ててマニラに来たのは、甘い言葉につられて再び世知辛い世界に戻るよりも、オレはは自分が求める世界に来たのだから例え飢えることになろうとも絶対に引き返すことはしない!と固く心に決めたからなのだが、西村ほど聡明でない筆者は奴から30年も出遅れてしまった、・・、そして俺は何をしているんだ・・と我が身の情けなさの恥じ入ってしまう。それでたった今酔って泣き崩れているのである。

さて気持ちの整理がつかないのでここから先は何を書いたら良いのか正直言ってまとまらないのだが、何故だか書きたいと言う意欲が止らないのである。そしてこういう書き方は本当に陳腐だけれども、そして甘ったるくて情けなくて本当に大嫌いなのだけれども、西村昌也はこれからも筆者の記憶の奥底から飛び出てきて、颯爽とした表情で「俺は旅が好きでな。特にアジアが堪らないくらい好きなんだよ!」と問いかけてくるのだろう。そう思うしかやりきれない。





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