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茶の湯とキリシタン(2)

2017/12/18 10:53:56 | 古代史歴史 | コメント:0件

日本を植民地化するのは無理にしても交易を通じて経済支配したい!と目論む16世紀のポルトガル政府にとって、もしも日本人を一人だけ自分たちの側に取り込めることが出来るとしたら、それは千利休である!と昨日の日記に書いたが、多くの方は「こうした場合は最高権力者を選ぶはずで、そりゃ織田信長の間違いじゃないの?」と思われたのではないだろうか。

しかし営業マン時代にさんざんゴマを擦ってきた取引先の社長が失脚して今までの努力がパーになった事から、ある組織を継続的に篭絡する場合はむしろ中堅幹部、それもいろんな部課長クラスに影響を当てる若手の潜在的リーダーや、その組織の共有理念を体現しているような人物を狙う方が効果的な事を知ったのだ。

で、16世紀末の日本にいた人物を見回すとこれまさに千利休になのである。すでにご存じの方が多いだろうが念のために書くと、千利休は茶道の巨匠とは別に大阪・堺の豪商、それも鉄砲と火薬を扱う武器商人としての顔を持っていて(というかこっちが本業で)、町人たちが自治権を持っていた国際貿易都市堺の顔役でもあったのである。





それと千利休は一介の茶人として信長・秀吉に取り立てられたと考えがちだが、下賤な話だがどんな権力者でも側近に期待するのは知恵よりもカネや情報、あるいは戦略物資であり、また利休の方も経済団体のロビイストかつ武器商人なのだから両者はお互い持ちつ持たれつの関係にあったと推測するのだが、これポルトガル側が求める人物像にズバリ当てはまるのである。

まずポルトガルの極東の一大拠点マカオに近い長崎は航海技術的には便利なものの、しかし本格的に日本に食い込むなら権力者に近くて物資が集まる堺の方が圧倒的に優位である。で、外国企業がある国に進出して最初にやるのはビルの一室を借りて事務所を開くことだが、千利休はビルの大家である上に全国各地に販売網を持った企業家で、おまけに首相官邸に部屋まで持っているのだから渡りに船とはこの事だろう。

だからポルトガル人は極めては嫌い段階で千利休に接触したに違いなく(実際に利休の妻と娘はキリシタンになっている)、茶道の作法にカトリックの儀式的な技法を盛り込んだのはキリスト教が持つ普遍的な思想に千利休が共鳴したのか、あるいはミサを見て「これは使えるな」と思っただけなのかもしれないが、千利休とポルトガル(あるいはイエズス会)はかなり密接な関係があったように見えるのである。





で、モノの本には千利休はキリシタンだった!などと実しやかに書かれているが、筆者は茶道を嗜まぬゆえその精神は正直判らぬし、それにそれを示す証拠も抹殺されているはずだから、今後イエズス会が洗礼の記録を書庫から発見でもしない限り分かりっこないのだが、しかし筆者が気になるのは千利休がキリシタンかどうかよりも、時の権力者である豊臣秀吉の眼に千利休がどう映ったのか?という点なのだ。

このままだとポルトガル(1580年以降はスペインの支配下に入っている)植民地化されてしまうのではないか?と疑った秀吉がバテレン追放令を出したのは1587年だが、しかしこれは布教を禁止しただけで、例えば日本の状況を逐一イエズス会に報告していた宣教師フロイスは追放令後でも長崎に居留しており、千利休が処刑される前年に大阪で豊臣秀吉を会見したりしているのだ。(キリスト教が国内から完全に追放されるのは1613年徳川家康による禁教令)。

つまり利休が処刑されたころの日本国内にはキリシタンの力はまだ温存されており、さらに交易志向型のポルトガルが植民地支配志向のスペインの支配下に入った事でこれまでとは対日姿勢はかなり変わってくると予想されたから、秀吉は疑惑の目で彼らを見ていたと思うのだが、そんな時に千利休がバテレン追放令に苦言を呈した、あるいは銃をキリシタン大名達に大量に売り始めたなんて噂を聞いた・・といった事が起こって「利休は向こう側の人間なのではないか?」との疑ったのではないか‥と思うのだ。(続く)






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