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豆まきと悲しき鬼たち

一昨日昨日と2回にわたって正月に呑むお屠蘇とは、天智天皇と共に乙巳の変を起こして大和の権力を背乗りした百済人藤原氏が「蘇我氏の残党どもを攻め滅ぼして何もかも奪ってやる!」という征服欲を実現するための呪術であり、それから千年経った今日われわれ日本人はこの狡猾な百済人の歪んだ欲望を意味も知らずに有難がっているとは何とも皮肉である・・という事を日記に書いた。

ちょっと筆者の文章力がヘタなので上手く伝わらないかもしれないが、これって広島原爆投下は正義の一撃だ!と後世の広島市民が叫んで紙飛行機と花火を使った行事をしているのと同じである。この狂った祭りの仕掛け人は当然ながら原爆を落としたアメリカで有り、お屠蘇の場合は藤原氏なのだけれども、しかし日本の昔からの習慣を見るとお屠蘇よりももっと酷いものがあるのだ。

豆まきである。今でもベランダに出た若い母親と小さな子供が「鬼は外!福は内!」と叫んで豆を播くのを見ると誰もが微笑ましい思いになるだろうが、しかしここでいう鬼とは何なのか?とじっくり考えてみれば多くの日本人にとってお屠蘇以上に大変屈辱的な意味合いがあることに気が付くのだ。





中国文化圏に滞在された方なら中国語の鬼とは角を生やした化け物ではなく「目に見えないもの」つまり幽霊を指す事をご存じだろう。ちなみに西遊記には金角銀角という角を生やした鬼が出て来るが、あれは日本向けにデフォルメされたものであり、本家本元の中国には日本風の角を生やして金棒を持った赤青二色の鬼というのは概念上存在しないのである。

ところが何で日本では角を生やした化け物に鬼と言う文字を当てたのかと言うと、これは「中国では見えない存在を鬼と呼ぶ」の「見えない」に相当する言葉が日本では「見てはいけない」という解釈、つまり儒教的な貴賤の概念から「見る価値が無い」、或いは扇子の仲骨の隙の部分から透かして見るほどの「汚らわしい存在」が鬼である・・という風に変化していったからだ。

で、その鬼とは具体的に誰なのか?というと鉄や水銀など鉱山採掘を生業としていた部族なのである。古代より鉄は武具や農耕器具、水銀は金精製のためのアマルガム媒介物、金銀は今と同じく貴金属として非常に重要な物資であり、古代の権力者たちにとって鉱山とは農地なんかよりもよっぽど重要な何が何でも抑えたい戦略目標だったのだ。





そこで鉱山の人間を殺戮することを正当化したいために「あの連中は人間ではなく鬼という化け物なのだ」と規定したのだ(ここで感じたであろう違和感は別の日記で説明する)。赤い色をした水銀原石(辰砂。朱とか丹と呼ぶ)を生業にしている部族なら赤鬼であり、青い色をした鉄原石鉱山なら青鬼である。話はずれるが今でも「鬼に金棒」なんて呼ぶのは彼らが棒なんかを鋳造する製鉄民の顔を持ち合わせていたからで、このデフォルメ化は理に適っている。

なお戦国時代の日本は攻める滅びるは日常茶飯事だったから、鉱山経営していた古代の部族が制圧されたことに対しては筆者は憐憫の情は湧かないのだけれども、しかし彼らを鬼と言う化け物にデフォルメして貶めた事や、さらに鬼の定義を良く見ていくと話はここで終わりでは無くて、藤原氏の軍門に下った後に土地を追われた上に鉱山送りになった東国の民までもが鬼と称されていることに筆者は憤りを感じるのだ。

捕えられ鉱山送りとなった彼らは鬼と言う化け物と見なされたから、ろくな食べ物も与えられず死ぬまで奴隷労働で酷使され続けたのだ。繰り返すが彼らは百済出身の藤原氏に軍事制圧されるまでは良き夫良き息子であった純朴な日本人なのである。その彼らを鎮魂するどころか「鬼は外!」と叫んで追い払っているのが豆まきという習慣なのだ。もちろん豆を播いているのは悲しきことに鬼の末裔である日本人なのである。






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そういえば、佐渡などに伝わる、鬼太鼓の中に、豆まき系というのがあって、翁の面をつけた人に向かって、人が豆をまく(鬼はまく側に隠れている)踊りがあるのですが、筆者殿の解説を裏付けているのかも。

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