代議士を死に追いやった馬鹿秘書

先日4回にわたって旧ソ連のスパイ浸透工作について日記にしたが、テーマが多岐に渡っている上に登場人物をいちいち説明するのに行を割かねばならず、筆者にとってはほんの入口に入ったばかりだと言うのにエラく長い文章になってしまった。

1930年代に進歩的な教育を受けたエリートが戦後になってソ連の工作員として密かに活動していた・・という点にだけ絞れば良かったのだが、瀬島龍三から陸軍統制派あたりで戦前の赤化浸透に拘泥してしまい、結果として戦後までモグラとして活動してたのは誰なんですか?という基本的なテーマにいつ辿り着けるのか見えなくなってしまったのだ。

それで今まで読んでいただいた方には大変申し訳ないのだが一旦この話は取りやめにして、今後は不定期で、さらに一人とか二人のスパイについて出来るだけ簡単な話にするようにします。ということで、今回はプーチン来日で報道番組にやたらと顔を出している鈴木宗男代議士に関するちょっと笑えないスパイ失敗談について書くことにしたい。





1975年にアメリカに亡命したKGB駐日工作員レフチェンコ少佐が議会で証言した「対日スパイ網」というのをご存じだろうか?。彼は「暗合名ギャバー:社会党中道派のベテラン指導者」という具合に自分が担当していた三十数人の日本人協力者(スパイ、情報提供者、あるいは西武の堤清二のような単なる親ソ派人士)の名を公表したのだが、この中に鈴木宗男らしき名前が登場するのである。

暗合名フェン・フォーキング、自民党の党員で、党内の一派閥の指導人に影響を及ぼしうる人物、72年から接触がスタートし、75年頃にかなり進展がみられ、ついには正式なエージェントとして取り込まれた・・というレフチェンコの証言を多方面から分析した結果、公安筋やジャーナリストはこのフェン・フォーキングはほぼ間違いなく鈴木宗男だと特定している。

当時の鈴木宗男は北海道の熊の異名をとった中川一郎の秘書だったのだが、ソ連KGBの目標にとって鈴木宗男は単なるとっかかりに過ぎず目標はあくまで中川一郎であった。中川は石原慎太郎や渡辺美智雄ら自民党内の若手右派を結集した青嵐会のボスであり、青嵐会解散後も弱小派閥の長ながら党総裁選に出るほどの大物代議士だったからである。




自民党の右派とソ連との間に一体何の共通点があるのか?と訝るかもしれないが、実は青嵐会の外交政策の基本は対米依存を脱した自主防衛と中国敵視であり、ソ連に対してはかなり融和的だったため、中ソ対立が深刻化して戦争に入ることを危惧していたソ連にとっては、米軍撤退と中国敵視を叫ぶ青嵐会とは外交上の利害が完全に一致するのだ。

そして中川の秘書であった鈴木宗男に接近した1972年というのも、ちょうどその前年にキッシンジャーが訪中して米中接近へと舵が切られ、米中一緒に組んでソ連を封じ込めませんか?という歴史的な外交転換が始まっている時期だったから、KGB東京支局にとっては万年野党の社会党の他に政権与党内に一つ楔を打ち込みたかったのである。

当時の自民党でも新中派である田中・大平派と親米派の福田派、風見鶏の中曽根派では相手にならぬから、結局は中川派に的を絞り(三木派は石田博英代議士がKGBのエージェントだった)、そこの領袖の秘書である鈴木宗男を取り込むことに成功したのだが、実はこれが世紀の大ポカというやつで、大変皮肉な結果を生み出してしまったのである。





なぜなら中川一郎はとっくの昔にソ連に取り込まれていたからだ。しかも中川一郎のカウンターパートはKGBよりもずっと格上なソ連共産党中央委員会国際部(MO)のイワン・コワレンコという超大物スパイマスターだったのである。旧ソ連の諜報機関と言うとKGBと軍系のGRUが思い浮かぶが、実は最も重要な情報機関はこの国際部(MO)なのである。

これはロシア革命後から第二次大戦までのソ連を見ていただけば分かりやすいが、もともとソ連は国際共産党(コミンテルン)の一支部という位置づけであり、海外情報工作活動はコミンテルンの情報部門が管轄しており、ソ連政府の諜報機関であるKGB(当時はチェカーやNKVDという名だった)が管轄するのはソ連国内の治安・謀略・防諜なのである。そして1943年のコミンテルン解体時に海外協力者リストを引き継いだのはソ連共産党国際局なのだ。

またジョン・ル・カレの小説を読むとKGB13局という他の部局とは完全に独立した最高機密部署が登場するが、実はこれはソ連共産党国際局(MO)の事なのである。後にイギリスの首相になったハロルド・ウィルソンなど最重要スパイはここが扱っていて、大所帯で職員のレベルも玉石混合なKGBには手を触れされるどころか存在さえも伝えて無かったのだ。





これ会社に例えれば党国際部(MO)は○○銀行本店営業部でコワレンコはそこの次長、一方KGBのレフチェンコは〇〇銀行大和郡山支店の係長くらいのポストである。もちろん本店営業部が取り込んだ人間は秘匿だから大和郡山支店の壁に「3丁目4番地の大富豪中川一郎さんは本店が管轄するので手を出さない様に!」などと貼ってあるわけもない。

そうとは知らぬKGBレフチェンコは中川の秘書鈴木宗男にアプローチしてしまい、鈴木宗男も幾何の金銭に目がくらんで中川から聞いた情報を渡していたのだが、生来の虚栄心から田中派の知り合いから聞き出した噂の類まで漏らしたため、KGBレフチェンコは鈴木宗男を田中角栄の情報もタッチできる人物と報告していたようである。

ところが困った事にKGBレフチェンコのヘマが見つかってしまい、身の危険を感じてアメリカに亡命するや前述の通りアメリカの議会で自分が日本で誰と何をしていたのか?をベラベラを喋ってしまったのである。当然ながら日米両国でハチの巣をつついた様な騒ぎとなり、そしてフェン・フォーキングの一件から鈴木宗男→中川一郎ラインが浮かび上がってしまうのだ。





ただしレフチェンコのリストには三十数名の名前があって、その中には上田卓三や勝間田清一、伊藤茂ら社会党選出の国会議員もいたのに、世間が騒いでいる最中に中川一郎だけが自殺(本の中では自殺に見せかけた暗殺と書かれてある)したのは、中川一郎の先までついたソ連共産党国際部の足跡を徹底的に消し去りたかったからだと言われていた

中川一郎の先って言うと、やっぱり青嵐会の面々だよな・・、石原慎太郎に渡辺美智雄、加藤六月に浜田幸一、三塚博、それと森喜朗に山崎拓なんてのもいるが、今となっては誰が何だかわかりはしないし、それに前述のソ連共産党国際局コワレンコが何かと中川一郎との付き合いをひけらかすことを考えると殺したのはソ連ではなく日本の権力者ではないかとも思えて来る。

まあそういう国際社会の難しいところを綱渡りで歩いていた中川一郎センセイも、秘書の鈴木宗男がコワレンコ曰く「大酒のみで精神に欠陥を抱えた」レフチェンコに引っかかった事で破滅してしまったのである。つまづいてちゃぶ台ひっくり返した男が今でもテレビに出て領土交渉が云々抜かしているけど、日本のメディアはなんでこんな野郎を未だに登場させるんだろう?






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アメリカに聞いてください(笑)

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