狙われた政権

昨日の日記で旧日本陸軍の統制派の中にソ連の回し者がいて、戦前の日本を誤った方向に導いたのではないか?ということを書いたが、今日の日記では大日本帝国のもう片方の車輪、軍ではなく日本政府に巣くっていたソ連のスパイについてちょっと触れたいと思う。とはいっても有名なゾルゲ事件の尾崎秀実ではないですよ。

尾崎秀美は大変優秀なスパイであり、日本はソ連に参戦せずに南進を決定!という情報は西部戦線でドイツの猛進撃に直面したスターリンにとっては万金に値するものだったけれども、じゃあ尾崎が近衛内閣の政策決定を動かすほどの人物だったのか?と言えばはっきり言ってノーである。

それから尾崎を近衛内閣に接近させる労をとった西園寺公一は文化大革命中の中国に亡命して毛沢東万歳を叫んでいたような人物だし、1920年代に英オックスフォード大学で共産主義にかぶれたと公言している位だからコミンテルンのお手付きなのはほぼ間違いないが、尾崎にしろ西園寺にしろたかが30代の若造が当時の日本の国策に与える影響など限定的だ。

近衛内閣時に実施された蒋介石を相手にせずの日中戦争泥沼化に総動員法、大政翼賛会の結成、日独伊三国軍事同盟に日ソ中立条約、アメリカの対日資産凍結を引き起こした南部仏印進駐、、そして対米戦争の準備といった諸々の出来事はよく見ればスターリンの砕氷船理論に忠実になぞったものであることがわかる。





つまり筆者が言いたいのはゾルゲ事件なんかよりも遥かに重要なソ連スパイが近衛内閣の中にいて、その人物に引きずられる形で近衛内閣は一連の愚策を連発してしまい、ついには亡国の憂き目にあったのではないか?という事である。で、それは誰なの?と結論に行く前に近衛文麿と言う人物の特異性についてちょっと触れたい。

東京帝大からわざわざ京都帝大へと編入し左翼の河上肇の薫陶を受けたり、朝飯会や昭和研究会という私的なブレーン機関に蝋山政道や正木千冬、犬養健に勝間田清一といった少壮気鋭な左翼人士を集めている事などから、近衛文麿は公家最高峰の家柄に生まれながらも共産主義にシンパシーを感じやすい性質の持ち主という矛盾の塊だったように思えるのだ。

ソ連から見ればそういう脆弱な人物が日本の総理になるのは好ましい事態だから当然ながら早い段階で近衛の周りに鼻薬を利かせた人物を送り込んでいるはずで、筆者はおそらく昭和研究会の幹事を務めた後藤隆之助がそうだったと思っているのだが、ただこの人物に関しては情報が少ないので、ここではもう一人かなり怪しい風見章という人物について述べたい。

風見章は第一次近衛内閣では内閣書記官長(現在の官房長官)、第二次内閣では法務大臣を歴任した近衛の懐刀とでも言うべき男で、ゾルゲ事件に関与した疑いから1942年に政界引退しているのだが、これが巧く回って連合国による戦犯訴追を免れ、戦後は左派社会党選出の国会議員となり、なんと日ソ友好協会の副会長を務めているのである。





さらに中ソ対立前の中国を訪問して周恩来首相と面会して戦前の日本の行いを詫びるとともに、日本は台湾を見捨てて中国と国交を回復せよ!と近衛の朝飯会メンバーだった細川嘉六とともに共同声明まで出している。言っておくが風見章は瀬島龍三の様にソ連に抑留されて思想教育を受けたわけでも無く、アメリカ軍に掴まって拷問を受けていたわけでも無い。つまりこの男は戦後になって本性を現したのである。

近衛の周囲にいた人間は風間はソ連の回し者!と指摘していたのにもかかわらず戦後を美味く立ち回り、死んだときにはなんと勲一等まで貰っているのだ。こんな野郎がのうのうと生き延びたこと自体噴飯ものだが、しかし不思議なのは新聞記者時代に極左的な記事を書きまくっていた風間をなぜ近衛は官房長官に迎えたのだろう?

実はここから先はまだ調べている最中ではっきりとは言えないのだけれども、尾崎秀実や風見章、そして風見の師匠格だった中野正剛ら数人の政治家と、先にあげた朝飯会と昭和研究会という近衛の私的ブレーンたちの経歴を見ていくと、要所にいる人間にはある共通点があるのだ。

朝日新聞社の記者だったのである。戦後の朝日新聞の左派ぶりはあまりに有名で、その反面戦前は右翼っぽかった・・と免罪符を与えられているけれども、近衛内閣の周辺にあった朝飯会と昭和研究会と言うブレーン機関、西園寺公一と尾崎が出会った太平洋問題調査会というシンポジウム、そして大政翼賛会の会員たちには朝日新聞の記者たちがチラチラ見え隠れするのだ。






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