あともう一列、もう一歩

生まれて始めての海外旅行があと数日でお終いとなる1988年3月末のある日、筆者は6週間に渡るインドでの厳しい旅を終えてバンコクへと立ち寄ったのだが、このたった1週間の出来事が筆者のその後の人生に決定的な影響を与えることになった。

バンコクで滞在したのは下町ヤワラートにある伝説の安宿ジュライホテルで、ここにいるのは筆者の様な真面目な大学生よりも日本社会から完全にドロップアウトした連中や、松尾芭蕉の様に旅が住処となってしまった男に、女買いだけが目的のエロ親父とヤク中、それとどう見ても精神に異常をきたしている破綻者の方がはるかに多いのだ。

しかし筆者は狂犬病のワクチンを打ってくれる病院探しや冷気茶室のガイドを買ってくれた男たち、そしてゴザ屋台で再会したインド・ゴア帰りのヤク中大学生などと一緒にいるうちに何故だか知らないが彼らに底知れぬ魅力を感じてしまい、奇妙な事にずっとこのままこのホテルで過ごしたい・・という願望が湧き出てしまったのである。

それはおそらく筆者がボヘミアンな性質を多分に持ち合わせていて、自分が心の中で渇望しながらも自身の臆病さのために決して踏み出すことの無い完全なる自由を彼らが体現していた様に見えたからなのだが、しかし筆者のこの自由を感じる時間にもタイムリミットが迫りつつあったのだ。





帰国して就職活動をしなければならなかったのである。当時はバブル景気に差し掛かった時期で売り手市場だったから、そこそこの大学に通っていれば8月の就職解禁日に企業訪問しても希望通りの会社に潜り込めることができたのだが、筆者の選考科目は当時はそれほどメジャーでは無い上に企業数も限られていたため、それを生かすなら教授推薦がどうしても必要だったのだ。

教授と学生世話役の講師を交えた推薦枠面接が4月の第2週に控えていて、筆者はそれに間に合う様に4月5日発のイラク航空で帰らなければならないのだが、でもどうしてもあと1ヶ月、いや例え1週間でもいいからここにいたい!とみみっちくも思う様になったのである(今考えるとそんなの放ったらかしにすればいいじゃん・・と思うだけだが・・)。

それでどうしたのか?と言うと、筆者は実にチンケな方法、つまり飛行機がオーバーブッキングで乗れなかったから仕方が無いでしょ・・という手を使うことにしたのだ。当時イラク航空は(リコンファームしたにも関わらず)平気でキャパシティーの10%増くらい予約を受け付けてしまうことで悪評が高く、しかもバンコク=成田間は週一便しか飛んで無いから上手くいけば費用は向こう持ちで1週間余分に滞在できるかもしれない。

繰り返すがちゃんと自分の意思で1ヶ月でも1年でも延期すれば良いだけなのだが(その場合就職は自力で探すことになってしまう)、小ずるくて度胸の無い筆者は全部航空会社のせいにすることで教授への対面と就職の推薦、そして自腹を痛めることも無くもう1週間だけついに巡り会えた楽園での滞在をせしめようとしたのである。





4月5日早朝、早めに荷造りを終えると階段を上ってホテルで知り合ったボヘミアン達に挨拶に行き、今から自分は飛行機に乗りっぱぐれに行ってくる、そして必ずここに帰って来る!と言うと、25才の眼鏡をかけたボヘミアンが怪訝そうな表情をしながらも「ああそうなの、上手く行くといいね・・」と言った。不思議なことにこの時の何でもない光景は何故か今でも筆者の記憶に残っている。

ホアラムポーン駅から電車でドンムアン空港へ行き、イラク航空のチェックインカウンターに出発2時間前に行くと(乗るつもりが無いのだから時間通り行く必要は全く無いのだが・・)みんな席を確保するためか既にもの凄い人数が並んでいる。その列に一旦は並んで半分くらいまで来たら「ちょっとトイレ!」と言って列を離れるのである。

前に行ったらスッと列から外れて最後尾に並び直す。これを何度も繰り返したが前にいる乗客はちゃんとボーディングパスを貰っているからオーバーブッキングになるにはまだ早い・・。そして遂に一番最後の最後、もうこれ以上誰もいない!という段になって「いざ決戦!」の思いでチェックインカウンターに行くと、担当の女が「ちょっと待ってください!」と言って席を離れるや上役らしき男とプリントアウトペーパーを手に何やら話し混み始めた!。

やった!ついに乗りあぶれたぞ!向こうがホテルを手配いたします・・と言ったらジュライホテルにしてくれるかな・・、まあ金だけもらえた方が有難いんだが・・、あと教授への説明のための書類ももらわんと!などとタヌキの皮算用をしていると、担当がツカツカとハイヒールを鳴らして目の前に戻ってきて、そしてニッコリと微笑みながらボーディングパスをカウンターに置くと「F」の文字を指差した。





1時間後ファーストクラスの乗客として窓からうっすらと消えて行くバンコクの町並みを眺める筆者。イラク人の美人スチュワーデスたちが「あなたはなんてラッキーなんでしょ」と微笑みながら言うが、筆者は心の中で「ふざけんな!」と泣き喚きたい思いであった事は言うまでもない。自分の居たらなさを他人のせいにしようとすると、得てしてこういう結果になってしまうものらしい。

帰国して大学に戻った筆者は推薦枠選定を見事パスし、現在台湾の会社に乗っ取られてお先真っ暗だが当時は筆者の専攻分野で著しい成長が期待されていた大阪の電機会社の研究開発職の仮内定を戴いたが、どうしてもタイ、いやもう海外ならどこでも良いから違う世界で人生を過ごしたい!という欲求が抑えることが出来ず、結局研究室のお偉方から総スカンを食いながらも海外に行けそうな別の会社を選んだのである。

そして大学4年の10月と2月にそれぞれ7週間ほどタイを旅して、就職してからもヒマをみつけてはタイに来て、そしてタイ駐在には遂に巡り合わせが来なかったものの香港に通算17年も駐在して、ヨーロッパやアメリカどころかロシアやパキスタン、ドバイにイスタンブールなんて土地にざんざん行って、フィリピン人と結婚して今度はマニラに4年住んでも、あの時の渇望感と喪失感は一向に癒える事がないのだ。だから筆者は今でもタイに来るのである。

一度切ったカードは元に戻すことが出来ないように、人生の選択も本筋を少しでもずらした処で安易に妥協してしまえば結局は何もしなかったのと同じである。おそらくあの時筆者が自分の意思で残留すれば、ジュライホテルの住人たちが楽しみにしていたチェンマイの水かけ祭に同行し、やがて帰りのチケットも何もかも破り捨ててタイの片隅でボヘミアンになっていたのだろうが、その方が自分らしい人生を歩めたのでは無いかと遅まきながら今は思っている。






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