マリファナ無害論

女優高樹沙耶の自宅からマリファナが押収された件で日本国内ではちょっとした話題になっているようである。ネットには「医療用大麻解禁なんて選挙で主張していたが単なる麻薬中毒じゃ無いか」「麻薬のせいで頭がおかしくなってるんだ」「オウム信者みたいにマリファナで洗脳されたんだ」などとすごいバッシングである。

確かに日本国内ではマリファナは違法だから、どういう主義主張があろうとも日本国民として法は遵守すべきであり、従って彼女が有罪になるのは当然なのだが、しかし動画サイトや掲示板のコメントを見ているうちにバッシングする側にも相当問題がある様に思えて来た。

彼らはマリファナは覚醒剤やヘロインと同じレベルの危険物質であるという発想に凝り固まっていて、マリファナは常習性が無く依存症にならないだけでなく、実は歴史上マリファナが原因で死んだ人間はいないのだ・・という事実に対しても「でも私は危険であると思っている」という脳内妄想から一歩も出てこないのである。

ふだん別の件では「日本はヨーロッパやアメリカの先取の気風に学ぶべきだ!」と抜かしている知識人が、欧米では医療用どころか嗜好用としても解禁の方向にあるマリファナについては何も言及せず「もっと厳罰化すべき」と発言しているのだから笑ってしまう。





ちなみに筆者はある一定の条件を満たせばマリファナは解禁すべきという考えなのだが、なぜそう言うのかと言えば学生時代にインドのゴアというところで一ヶ月間マリファナを吸いまくってきた実経験があって、もちろん依存症などにはならなかったし、それにそれまで不調だった体調が一気に好転した経験があるからなのだ。

インドを旅された方ならよくご存知の通り、ここは肝炎や腸炎、赤痢にコレラなどありとあらゆる病原菌の巣窟であり、日本を出た時に85キロだった筆者はカルカッタとベナレスでひどい病気にかかって63キロまで激ヤセしてしまい、このままじゃ死ぬ!と心配してくれた同志社大生2人組に引き連れられてゴアまでやって来たのだ。

ゴアというのはボンベイの南にあるリゾート地だと思っていたが、ここは実はヒッピーの聖地イコール麻薬やり放題の王国で、特に筆者がいたアンジュナ・ビーチはいくつかあるビーチの中でも一番ヤバい場所としてその筋では知られており、到着早々入ったホワイト・二グロ・カフェで隣のテーブルの白人が紙巻タバコを回して来たので吸って見たら、これがなんとマリファナだったのである。

それまで吸っていたのとは格段上質なブツらしく頭がモワーンとした後で笑いが止まらなくなり、なんかこういうのいいなぁぁぁ〜と思って他人様からマリファナを失敬しているうちに結局一ヶ月間も居着いてしまったのだが、それまで苦しんでいた下痢や吐き気がピタリと治り、急に食欲も湧いて来てすっかり元気になったのだ。





マリファナが持つ医療効果については欧米の研究機関が証明しているし(もちろん反論もある)、それに「何より病は気から」という諺通り吸った人間が多幸感に満たされるので、ストレスやうつ病など精神面からくる病気にはかなり効果があるな・・と筆者はその時知ったのだ。

後年サラリーマンになった筆者は精神のバランスを崩して脱落して行く同僚たちを数多く見てきたが、もし精神科がSSRIでは無くマリファナを処方すれば彼らの家庭もおかしくならなくて済んだのに・・と何度も思ったものである。ただ違法下で吸って捕まったらもっとシャレにならない事になるんだけどね・・。

なお筆者はマリファナ禁止派を全て攻撃してるわけでは無くて、マリファナの無害さは認めるけども解禁派の連中の他人を見下した様な言い方が嫌だ!とか、背後にいる怪しい企業が気にくわない!、或いはもっと真っ当にマリファナが他の麻薬と違って危険性が少ない事は認めるけど、より強い薬物に手を出すキッカケになりかねないのだからやはり線引きは必要だ!という意見なら筆者も反対はしない。

ちなみに筆者はマリファナが違法な国では一切手は出さないし、またその国がどういう法基準を持とうともそれは各国の自由だから非難する気は無いけれども、少なくとも危険性や薬効についての科学的データに基づいて冷静な議論をすべきだ!と言いたいのである。そうしないで事実を捻じ曲げるのならば文明国とはとても言えないよ。






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幻のフローシャイム

バンコクのセントラルデパートでデッキシューズを探している時にふと紳士靴の陳列を見たらそこに信じられないものを見つけた。フローシャイム社のペニーローファーの定番バークレーである。筆者はこの靴を今から数年ほど前には必死で探し求めていたのだ。

高校入学時に学校の売店で学生服やらカバンを物色している時にローファーを見つけた筆者はそのデザインにすっかり魅せられてしまい、15歳の春からサラリーマンに見切りをつけた数年前まで実に30年に渡ってローファーを履き続けた人間なのだ。

もちろん高校から大学にかけては安物ハルタのローファーを履いていたが、給料をもらえる立場になるとリーガルにカーストアップし、香港駐在になるやバスやコール・ハーンなんか履くようになったのだが、困ったのは筆者は角質やタコが出来やすい足の持ち主で、月に一回はハサミでチョキンと分厚くなった皮を切る必要があったのだ。

「キミィ、だったらフローシャイムを買いたまえ!」と言ったのは海外営業の青木部長である。この御仁は部長になる前は長らくロンドン支店長を務めていて、上から下までブリティッシュなブランドを纏っているキザな紳士だったが、なんと靴だけはアメリカのフローシャイム社の製品で、これは若い頃ニューヨーク支店に勤務した頃から変わらないのだと言う。

「バリーやグッチも良いけど男はやっぱりフローシャイム」と子供の頃よく聞いたどこかのビール会社のCMみたいな事を言うので、まあ半信半疑で香港島東部フォートレスヒルの行きつけの靴屋に行ったら、そこのヘンテコリンな親父が「お前分かってるじゃないか」という表情をして奥の倉庫からバークレーを持ってきたのだ。





値段はなんと700香港ドル(当時のレートで一万円)ぽっち・・・。なんか間違ってるんじゃないか?と思ったが、この靴を履いてみると「な・何これ?」と思うほど足に馴染んでくる上にすごく頑丈なのだ。しかも驚くべきことにいくら歩こうが角質やタコとは全くの無縁となり、半年もするうちに筆者の足は赤ん坊のようにツルリン!としてきたのである。

なお齢70を超えた御仁がこの日記を読んだら「フローシャイム社はかつては世界一の靴メーカーだったが、経営が行き詰まってインド企業に買収され、最早かつての栄光が嘘のように落ちぶれてしまった事を知らんのか!」と言うに違いないが、例え本体が売却されても長年培ってきた設計ノウハウの蓄積と言うのはそう簡単に消え去るものでは無いし、現実に当時はまだまだ秀悦な靴を作っていたのだ。

それで筆者はすっかりフローシャイム社のファンになり、なんと15年間にわたってこのバークレーのブラックとブラウンを買い求め続け、ストレートチップが基本のフォーマルな場でもダークスーツ姿に本来ご法度なローファーで現れることもしばしばあったのだ。

それとバークレーは安い割に案外と頑丈で、それにいくら歩いても足への負担が少ないことからアメリカやヨーロッパ、ロシア、中近東にインド、パキスタンから中国奥地なんかもこの靴でずっと歩き渡ってきたのだが、それが2010年頃だか行きつけの靴屋に行ってみたら「バークレーが全然手に入らなくなってしまった」と言われたのだ。

生産中止になったわけでは無く、今でもフローシャイム社の香港代理店には入庫されているのだが、雑誌かテレビか何かで香港の有名なスターが「自分はずっとフローシャイム社のバークレーを愛用している」と取り上げられた事でファンが一気に増えてしまい、店に入荷するなりすぐに売り切れてしまうようになったのだと言う。





しかし何事も熱し易く冷め易い香港人のことだから、そんなの数ヶ月で元の鞘に収まるだろうと思っていたのだが、それどころか状況は更に悪化するだけで筆者が会社を辞める一年前にはどの靴屋に行っても店員に申し訳ない顔をされるだけで、もはや全く手に入らない幻の靴となってしまったのである。

その幻のバークレーが今目の前にある。それで値札を見たら案の定大した値段ではないので、だったら一足買ってみるか!と女店員に自分のサイズを言ったところ、5分後に箱を抱えて戻って来て「これより大きいサイズの茶色しか在庫がありません」と案外流暢な英語で言った。

それでこの靴は人気があるのか?と聞いたところ、ええ、知名度が高いわけでも無いのになぜだか固定客が多くて品切れになる時が多いのだ・・と言う答えである。なるほど、バンコクでも筆者みたいな奴が結構いるのだな・・と納得してしまう。

それで持って来たバークレーを試しばきしたのだが・・。この「大きいのしかない」の大きいというのが、こんな巨大な足してんのはケルトの巨人系種族くらいじゃないか・・と思うような代物で、こんなのしか無いんだったらサンプル陳列しなきゃいいだろうが・・と呆れてしまったのだ。

なんと女房の足のサイズから筆者までの間がスッポリと在庫ゼロな事が分かり、一時の喜びが完全に崩壊して憤慨しながら店を出る筆者。結局バークレーはまた幻の靴となってしまったのである。まあ別に今はスーツ着なくなったんだから困らないんだけど、でも増産とか考えないのかね?インド人のオーナーさん。






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バカ女行くとこまで行く

一週間ほど前の日記でベトナム人から1万米ドル拝借してそのまま何処かへトンズラした女房のクラスメイトで職業詐欺師ジュディー(Judy Paz Benditahan或いはJudy Castroと自称)の事を書いたが、昨日お土産目当てに我が家にやってきた共通の友人アイリンからこのバカ女の新たな事実が発覚した。

つい先日お祖母ちゃんになったのである。ジュディーは別れた旦那との間に今年17歳になる息子がいるのだが(婚姻中に別の男と不倫をし、この男との間に10歳の娘もいる)、この役立たずのバカ息子が女を孕ませてしまい、先週子供が生まれたというのだ。

へえ、そおなの・・としか筆者は思わなかったが、アイリンの話によるとなんと出産費用を払えないため母子ともども退院する事が出来んなくなってしまい、ジュディーの息子は金策に走り周っているというのだ(アイリンの家にも来た)。





ちょっと待て、じゃあジュディーは何をしてるんだ?と聞いたところ、なんと息子の必死の問いかけに対してもずっと沈黙しているだけで今現在いったい何処に居るのかも全くわからないと言うのである。このバカ女、ついに息子からも姿をくらましたのだ。

本当にテメエの事しか考えられない欠陥人間だなと呆れたが、なんとこのジュディーは半年前に突然フィリピンに現れた際に、息子のガールフレンドとその家族に「自分はカンボジアの英語学校で上級職にいるから金の事は心配せずに安心して子供を産んでくれ」と言っていたのだそうだ。

それが半年たったらこの体たらく・・。全くこんな虚飾の女が奨学金を得て教育大学に進み、公立学校の教師をやってたとはフィリピンの民度の低さを実に良く物語っているが、実は今回アイリンからもう一つジュディーの知られざる素顔を聞かされて唖然としてしまったのだ。





半年前アイリンらを呼んでカンボジアでの自慢話をしていたジュディーから「これがあたしの勤めているプノンペンの英語学校よ!」言って携帯を渡されたのだが、アイリンがスクロールし続けているうちに決して見てはいけない写真を見つけてしまったと言うのだ。

「NIGER, A LOT OF NIGER MAN.....」と差別用語から始まって恐縮だが、アイリンが語ったのは複数の黒人の男と戯れるジュディーのあられもない姿や、黒人男性の◯◯◯を△△△っているジュディーが写っているおびただしい写真だったのだそうだ。

ちょっとしかキッカケで詐欺に引っかかり、その埋め合わせのために今度は自分が詐欺師となってしまい、今や追われる身になったジュディー。まあここまでは理解の範疇にあるけれど黒人の◯◯◯とは・・。人間一度堕ちるととことんまでイクとは聞いていたけど、でもこれって・・普通ここまでイクか?






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後ろが危ないトイレ

プロンポン駅の北側に新しく出来たEM QUATIERというショッピングモールで昼メシを食ったあと突然大きな方の便意を催した筆者はある階の男性用トイレで用を足していた。

突然ガチャッ!と開く扉・・。おいおい!中に人がいるぞ!と声を上げ、慌てて扉を引き戻したが、その瞬間に相手の腕がチラッと見えた。体毛が金髪・・。という事は白人が間違って扉を開けたらしい。

しかし筆者は大変注意深い性格の人間なので鍵をかけ忘れるという事は絶対に無いのだ。つまりこの白人は無理やり鍵を開けたか、もしくはここの警備員から何かで合鍵を持っているのどちらかである。

でも白人が警備員やってるわけないよな・・と思っていると、今度は右隣の房に人が入ったのだが、不思議な事に便座を下げる音とか脱糞時のブリブリ〜という音が一切せず、まるで様子を伺うかの様に沈黙したままなのだ。

これはひょっとして、あのシーロムロビンソンの5階の様なホモ達の溜まり場と同じでは・・。そう、実は今から30年近く前に当時付き合っていた彼女の職場がここにあったため筆者はこのトイレをよく使っていたのだが、 毎度ホモに襲われそうになったのである。

トイレに行くといつも数人のそれらしい格好をした男達が屯っていて、小便をしてると横に立って覗く、大の方をしていると隣の房の隙間越しに珍妙な形をした鏡を使って覗く、そしてトイレを出た後につけ回す・・というのがいつものパターンだったのだ。

実はここはホモの溜まり場として有名であり、ここに来るイコール男とやりたい!という事に直結するのだと後になって聞いて背筋が寒くなった覚えがある。都会の中にこんな深い落とし穴があるとは・・さすが性大国タイだ。

そして時代は下ってプロンポンのトイレの中でチクショウ!そういう事か!と焦った筆者は一切の音を立てるの止めてそっと耳を仕切り壁に当てると、シーンと静まり返った沈黙の中から奇妙な男の息遣いが聞こえてきて・・。その瞬間にうわーっ!と叫んで房から飛び出たのである。

ところが実はトイレにはもう一人インカ帝国みたいな変なオカッパ髪のタイ人の若い男がいたのだが、叫んでいる筆者に対して「どうしました?」と声をかけるどころか、全くビックリした表情もせず単にジットリと筆者の事を見つめているだけで・・。その後はもう100メートルダッシュである。

このショッピングモールはエンポリウムの新館という位置ずけでバンコクでは最先端の・・という触れ込みなようだが、その一方某階の男性用トイレにはホモ達が深海魚のように口を開けてエサを待ち構えている事を紳士諸君は肝に銘じておいて欲しい。




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臭い女の見極め方

筆者の元同僚にOという技術屋がいた。このOは若い頃からブラジルとマレーシアの工場に赴任した国際派で、長年品質保証部という不良品の発見と改善を担当する職場で経験を積み、その後は海外営業部の技術担当として世界中の顧客を回っていたのだが、彼はその能力の高さとは別に一風変わった趣味の持ち主でもあったのだ。

女性のアソコを舐めるのが好きなのである。とにかくベットを共にする相手は如何なる人種も例外なく舐めるという信条の持ち主で、しかもその時間ときたら最低でも30分とか1時間とやけに長く、俺は世界中の女性から大変感謝されて来たのだ!という自慢話もあながち嘘では無さそうであった。

あんた何でそんな事が好きなのか?と聞くと、舐めてる時の女性の腰の動かし方がどうだとか、女性の柔らかい下っ腹がゆっくり上下運動をするのを眺めると幸福感で満たされるのだ!などと私的かつ詩的な説明を始めるのだが、それを聞かされた筆者は途中で話を遮って最も重要な質問をする事にした。

アソコが臭い女を事前に見抜く方法はないか?という事である。Oほどでは無いが筆者も舐めてイカすのが好きな方なのだけれども、美人で気立ての良い女を見つけた!と喜んでいたのに、いざ事が始まったらプ〜ンと異臭が漂って来るのを嗅いで意気消沈してしまう事が何度かあったからである(多くの男性諸氏が筆者の心情を理解できると思う)。





なおここで臭い女!という定義はインド・パキスタンから中近東、アフリカにかけて多く生息する全身どこもが臭い女ではなく、髪の毛や脇、胸元などは別に何にも臭わないのに何故かアソコだけが臭い!洗えば何とかなるんじゃなくて恒常的に臭い!という事前判定不能ででったら最後不可抗力的な女の事である。

世界中のアソコを舐めて来た君なら、しかも品質保証(英語で言うとクオリティ・コントロール)に長年従事して来た君なら、アソコの臭いと外見上の特徴との間に何らかの因果関係を見つけているに違いない!と詰問したところ、このOはウーン・・と唸りながら何か考えるような表情をした後で(この瞬間なんか怪しいな・・と直感的に思った)口を開いた。

「それは鼻の広がりだ」と言うO。鼻?そりゃまたどう言う事だ?と聞いたところ、ほら!小鼻が開いてると言うか思い切り横に広がってる女っているだろ。鼻の穴が大きくてフーンッ!と鼻息吹くだけで1メートル先のロウソク消せそうな女。ああ言う女はみんな臭いんだよ!と言い出したのだ。

Oによると鼻でもアソコでも耳でも口でも穴が大きいのは体内の老廃物や汚臭ガスをいっぱい放出できるから、つまり体の中に熱や臭みを大量に抱え込みやすい体質なのだ・・と言うのだが、あんたそりゃ原因と結果がアベコベなんじゃないか!と反論したら、オレは自分の体験で言ってるんだ!と言い張る。





確かに人生40年のうち半分くらい、しかもブラジルやマレーシア、中国にルーマニアらドナウ川沿岸諸国など誰がどう考えても臭そうな女たちを舐めまくって来たのだから、その体験に裏打ちされた意見は確かに重みがある。それでその場はまあ大人しく引き下がったのだが、なんと後日あるナイトクラブのホステスを連れ出した時にOのいう事は正しい事が分かったのだ。

この女はえらく臭かったのだが、鼻はスッキリどころか異常なくらい小鼻が無いのである。それでひょっとして・・と思った筆者は率直に「お前整形してるだろ」と聞いたら、ええ、そうなのよ、あたし元の鼻の形が嫌いだったの!と言って財布から昔の写真を取り出すや、そこにはあしたのジョーの力石徹みたいな幅広な鼻をした女が写っていたのだ。

その後香港のサウナで1回と、モスクワのナイトフライトという連れ出しバーで1回臭い女に出会うことになったのだが、不思議なことにOの言った通り確かにこの二人とも小鼻がやけに広がっているタイプである。ということは・・あの時のOは作り話をしやがったな・・と思っていたが、さすが品質保証屋だけあって直感が閃いたのに違いない。

さて筆者が何でこんなことを日記にしたのかと言うと、毎日プロンポンからアリーまでモノレールに乗っていると何故か鼻が大きく広がった女子高生らしい一団と乗り合わせるからで、筆者は彼女らの鼻をしみじみ見るたびに「君たちはみんな臭いんだなぁ」と一人感慨に耽っているのである。






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マインドコントロールが得意な台湾ヤクザ

期待の新商品がリーマンショックのおかげですっかりコケてしまい、こりゃ先進国だけ売り込んでちゃダメだ・・という事で東南アジアやインド、東欧など新興市場を回っていた時のことである。インドネシアのジャカルタで顧客と商談した後で一緒に夕食となったのだが、顧客から「今夜別の取引先も同席するけど良いか?」と言われた人物を見てアッ!と驚いてしまった。

サニー・パン。台湾の台南にあるA社の大株主かつ総経理で、ここは10年前まで筆者の取引先であった。筆者が働いていた会社は液晶部品を取り扱っていたために90年代までは時計業界との関わり合いが結構あって、サニー・パンの会社にも定期的に訪問していたのだが、筆者は彼では無くサニー・パンの義兄で董事長のジョージ・リンとだけ話していたのだ。

と言うのはA社は真っ当な時計メーカーという顔とは別に、1980年代から90年代前半にかけてその筋では知らぬ者の無い精巧な偽物スイス時計の供給者と言う2つの顔を持っており、サニー・パンはそのニセモノ時計部門の責任者を務めるとともに、台湾ヤクザ組織の企業舎弟と言うかヤクザそのものだったからだ(ミニ許詠中と想像していただくと良い)。

「あいつは絶対に付き合っちゃダメね」と台北支店の物知り楊さんが言っていた通り、90年代終わり頃の組織犯罪摘発運動の際にA社から大量のニセモノが押収され、見事サニー・パンは刑務所の中の人となったはずなのだが、それがどう言う訳か十年後ここジャカルタの大手顧客の食客として筆者の前に現れたのである。

「紹介しよう!彼はサニー・パン。ウチの会社のコンサルタントとして業務全般を観てもらってるんだ!」というインドネシアの取引先の若いオーナー。どうもインドネシアじゃ情報が伝わって無い様なのと、同じ福建系という気安さからか選りに選ってこんなとんでも無い野郎を雇ってしまったようである。





「私はね、もう自分の儲けなんかのために一生懸命やるよりも、自分が培った経験を若い世代に伝えて行きたいと思ってるんだ。それが老人のやるべきことなんだよ」などいけシャーシャーと抜かすサニー・パン。このくそヤクザが・・と筆者は呆れたが、今でも背後に変なのが居そうだからここで何か言うのは命取りだ。

それで黙って聞いていたのだが、これがまあ実に調子が良いと言うか、自分がスイス時計業界の超大物とビジネス戦略について議論した時・・なんて話をするのだが、正確に言うとお前が話したと言うその大物の会社のブランドをつけたニセモノを売り捌いて告発され、その大物の顧問弁護士から巨額の賠償金を課せられて計画倒産したんだろうが!と思ったが、ここで口に出して言う訳にはいかない。

ところが・・サニー・パンのインチキ話に気を取られるあまり、筆者と同行した香港人の部下アンドリュー(この客の担当者である)の中に重大な変化が起こっている事に筆者は気がつかなかったのだ。なんとアンドリューはこの犯罪者の言うことを間に受けてしまい、たった2時間一緒にいただけなのに心酔してしまったのである。

女性を交えた2次会を終えホテルに戻った筆者はアンドリューに「ちょっと話したいことがある」と自室に呼び、あのインドネシア顧客とキミは年恰好も同じくらいで、セールスマンと客というよりも友達みたいに気が合う様だから・・と言って、サニー・パンの本当の姿を説明し、お客にそっと伝えて欲しい由を頼んだのだ。

そしたらアンドリューは「サニー・パンはそんな人じゃない!」と叫びだし、あの人が言った若い世代に自分のノウハウを!という話を聞いたでしょ!あれはサニー・パンの心からの思いなんだよ!それを判らないなんて!あんたは人間の心を持ち合わせてないのか!とかな〜り感情的になってしまったのである。





お前・・洗脳されやすい奴だったのか・・と筆者は驚いたが、こりゃ何を言ってもダメそうだから結局その数日後にインドネシア顧客に直接説明したところ、実は自分たちも彼にはなんか変なところがあるなとは思っていたのだが、ようやく正体が分かったよ・・と感謝され、晴れてサニー・パンは契約更新されずにお引き取り頂くことになったのだ。

ところが・・、アンドリューはサニー・パンは無実なのにも関わらず筆者の心無い告げ口が元で排除されたのだ・・という思いが払拭できなかった様で、元々気が合わなかったけれどもこれ意向もっとシックリといかなくなり、やがて他に良い職場が見つかったからと辞表を提出してきたのだが、アンドリューに行く先を聞いたらこれがニューライフとかいうマルチ商法・・。

まあ確かにこういう洗脳されやすい奴でないとこの手の業種は務まらないか・・。アンドリューは主宰者の口上にすっかり取り込まれて自分が非常に価値有るものを売っているのだ!と思い込み、親兄弟から親戚にクラスメイト、はては近所の友人から道端ですれ違った誰彼かまわず売り込みをかける様になったのである(筆者の所にも来たが追い払った)。

さてサニー・パンはその後別の会社から詐欺か横領で訴えられて再びお縄の身となったと聞いたが、奴はもともと頭の血の巡りは良い人間だから、塀の中でじっくり考えれば長い時間をかけて誰かに取りいろうとしてボロを出すより、短時間のうちに大人数を洗脳する方の才能に恵まれていることに気がついたに違いない。

マルチ商法に自己啓発セミナー、プロテスタント系牧師にテレビ伝道師。残念ながらサニー・パンみたいな野郎はこういった如何わしいビジネスには天賦の才能を発揮しそうだから、多分今でも人をたらしこんで肥え太っているのだろう。こういう野郎の本質を見抜くのは難しい事だが、余りにも耳に心地の良い事ばかり抜かす野郎がいたら要注意である。さもないとアンドリューのようになってしまうよ。






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バンコクの伝説の安宿街マレーシアホテル周辺の現在

シーロム通りまで両替に来たついでにマレーシアホテル近辺まで足を伸ばして見ることにした。実は今から30年近く前にカルカッタに行く途中にこの有名なホテルに一泊だけしたことがあって、その晩に奇妙なオバさんに会ったりしたけれど、生まれて初めての外国で過ごした一夜でもあるからちょっと思い出の場所でもあるのだ。

バンコクの安宿街と言うと真っ先にカオサン通りの名が浮かぶが、筆者が旅をしていた80年代には飛行機から降りてこれからバンコク市内に向かう・・という日本人バックパッカーたちの宿泊場所はヤワラート半分、マレーシアホテル周辺とカオサンがそれぞれ1/4と言った具合で、これが西洋人の場合だと半分くらいにも及ぶ当時最も活気のあるエリアだったのだ。

ところが90年代になるとカオサンの隆盛が始まり、代わりにヤワラートは名門ジュライホテルと楽宮旅社の閉鎖によってゴーストタウン化してしまったが、片やマレーシアホテル周辺の方はどうなったのか何にも情報が入って来ない・・。それで最後にこのホテルに滞在した社会人2年目の旅から実に26年ぶりに見に行くことにしたのである。





地下鉄ルンピニー駅の1番出口から真っ直ぐ東の方向へと歩いていき、2つの銀行に挟まれた横道を南に折れるとそこから無数のゲストハウスが見えるはず・・なのに何にも無い。あれっ?昔はここら辺から旅行代理店がズラーッと軒を並べていたはずなのに有るのはマッサージ屋、それもポツンポツンといった程度である。

さらに進むと右側に懐かしいマレーシアホテルが見えてくるはずだが、そこには確かに今でもホテルはあるんだけど・・、趣きが全然違うしすごく寂れている感じだ。おかしいな・・こんなはずじゃ・・と思ってセブンイレブンのところで左折するとゲストハウスや安食堂がいくつかあるのが見つかったが・・これもポツンポツンである。

これだったら何もかもが消えたヤワラートの方がまだマシだわ・・。下川裕治だか誰かの雑誌記事だとアジア随一の魔窟と呼ばれた70年代の匂いを今でも色濃く残している・・とか書いてあったけど、そうじゃ無くてすっかり落ちぶれて何の魅力も無くなったボロ雑巾の饐えた臭いが充満しているだけじゃないか・・。





バンコク中央駅に近いヤワラートや、王宮にワット・プラケオ等の観光名所に面したカオサン通りと違って、これといった地理的優位性も無いマレーシアホテル近辺が格安宿泊施設と旅行代理店、そしてレストランとバーの一大集積地となった理由はこの近辺にアヘン吸引所が無数にあったからだが、どうもこの最後の頼みの綱もとっくの昔に廃業してしまったようだ。

香港の重慶マンションにカルカッタのサダル・ストリートなどアジアには世界中から若くて貧乏なバックパッカーを引き寄せた安宿街があって、これらの場所特有の一種独特のアナーキーさと物憂さが筆者は大好きだったけれども、どうもマレーシアホテル界隈はその残滓さえも枯れ果ててしまったようである。

60年代後半はベトナムの前線から休暇で息抜きにきた米兵で溢れ、その後は世界中のバックパッカーで溢れたこの場所も今は単なるツンと取り澄ました物静かな住宅地の一角になりつつある・・。こういうのって「ツワモノどもが夢のあと」とでも言うのだろうか。なんかこういうの見ちゃうと切ない気分になってくるね・・。






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のろまなハウスキーピング

今回合計5箇所のホテルに滞在しているのだが、そのうち3カ所で奇妙な事を聞かれるようになった。最初の体験はチェンマイのメリディアンで、部屋のチャイムが鳴ったのでドアを開けるとハウスキーピングの主任とか言う女性が立っており「何か私たちのサービスに不便な事はありませんでしょうか?」と聞かれたのだ。

不都合?いや別に何も無いですけど・・・と答えると「そうですか、では失礼します」と帰っていったのだが、実はこの後バンコクのホテルでも全く同じ事を滞在二日目に聞かれてしまい何だか変な感じがして来たのである。

それで外出先から部屋に戻って来たときに目を皿の様にして見回してみたら、なるほど二人でチェックインしたのにも関わらず歯ブラシやシャンプーなどアメニティーと無料の飲料水が一人分しかない事に気が付いた。

それでドアを開けるとちょうど向かいの部屋が掃除中だったので、女性に足りない分をくれ!と言うとともに俺たちは二人だよ!と言ったら「カオチャイ カー(分かりました)」と言った。まあこれは世界どの国でも良くある話である。

ところが翌日再び戻ってくると、やはりアメニティーは一人分しか置かれてないだけでなく、トイレットペーパーもあと1回使ったらお終い・・という状態のままで補充されていないのだ。それでまた向かいの部屋を掃除している女に昨日と同じ事を言ったら「カオチャイ カー」である。

しかしそのとき筆者はこの女に違和感を持った。というのは筆者ら夫婦が外出した午前10時頃にこいつは筆者のフロアの掃除を始めたのだが、チェックインタイムを過ぎた夕方5時になってもまだ掃除をしているのだ。この人なんか仕事が遅過ぎないか・・。





その次に移ったホテルでも状況は同じで、タオルが無い、トイレットペーパー無い、コーヒーカップが洗われてない、いつまで経っても掃除をしていて部屋には入れない、ゴミ箱の中身を捨てていない、といった事態が起こっていて、ちゃんと普通にできた日というのが結局ここ2週間で1日も無いのであること。

まあモノが盗まれた訳じゃないからいいんだけど、再びトイレットペーパーが無いのを見つけた女房が今すぐ貰って来てくれ!と言うので(女房は用便中であった)、仕方なく同じフロアの奥で駄弁っていたメイド三人のもとへ歩いいったところ、彼女たちの話していた言葉は・・タイ語じゃなかった。

それはカンボジア人じゃないですか・・という旧友M君。筆者は知らなかったのだがインドシナ半島諸国のTPPみたいなのが締結され昨年からミャンマーやカンボジア人が低賃金労働力としてタイに入り込み、掃除人みたいなタイ人が嫌がる仕事は彼らにとって変わられつつあるのだという。

だけどいくらカンボジア人言ったってトイレットペーパーを補充するくらいの頭は回るだろう・・と思ったが、M君の話だとカンボジア人の下の方の人間というのはちょっと想像を超えるほどレベルが低いらしく、M君の会社でもほとほと呆れ果てて即効でクビにしたカンボジア人が何人かいるのだそうだ。

筆者のいた会社もその昔より安い人件費を求めて中国の奥地へ入って行き、結果的に酷い目にあったから数字だけ見て判断するのは危険!と言うのを身を以て経験したけど、だけどこの2軒のホテルの経営者って名目賃金額だけで無く一時間当たりの労賃とか計算しないのかね?

この世の中で机の上から世界を眺めることほど危険な事は無い!という有名な言葉があるが、世の中どころか自分のホテルの中を一日一回ぐるりと回れば、カンボジアやミャンマーの悠久とした時間感覚が自分の城に徐々に蔓延している事に気付くはずだよ。まあそれもタイらしいって言うのかも知れんけど・・。






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バンコク外こもり残酷物語

同じスクンビット通りながらも今度はソイ33からソイ26のホテルに移動した筆者は歩いて1分の距離にあるNという居酒屋で一人夜食を取ることにした。この居酒屋Nとは知る人ぞ知る伝説の外こもり日本人「福ちゃん」が店長を勤めている(と言われている)店である。

作家クーロン黒沢氏のファンであれば福ちゃんの事はご存知と思うが、この四十代前半の日本人男性はかつて日本のテレビで特集番組を組まれたほどの有名人で、自閉症気味のため日本ではどうやっても巧くいかず、バンコクに来てカオサン通りという安宿街にずっと引きこもっていたのだが数年前に一念発起して働き始めたのである。

日本人レストランオーナーの下でマグロの買い付けやカラオケ店の雇われ店長、やがて独立して屋台のラーメン屋を起業したりしたが、昨年から再び日本人オーナーの下で居酒屋の雇われ店長となり、クーロン黒沢氏は「バンコクに行ったら是非とも福ちゃんを訪ねて行ってあげてください」と自主放送で言っていたので、応援の意味も込めて昨年10月にバンコクを訪問した折に彼の店に行ったのである。

ところが・・。福ちゃんと初対面して自己紹介した後ごくごく何気ない世間話を試みたのだが、これが話が噛み合わない上に途中から全然関係ない事をずっと話し続けられてしまったのだ。こりゃ参ったな・・この人はコミュニケーション能力に難があるぞ・・と気が付いた頃には今度は突然プイッと目の前からいなくなってしまったのである。





ちなみにこの居酒屋は金髪のケバい格好をした中年女性数人がウェイトレスとして働いていて、一人で来た客が淋しく感じない様にやたらと話しかけてくるのだが、筆者が入店直後に「福ちゃんいますか?」と言った瞬間浮かんだ彼女らの当惑した表情が物語ったように、筆者にだけは誰も話しかけてくるどころか目を合わせる事もなく、福ちゃんが消えた後一人ポツンと取り残された筆者は居たたまれなくなって店を辞したのだ。

あれから1年、正直この店に行くのは気乗りしなかったが、女房が具合が悪くて寝込んでいるので遠出するわけには行かないし、それに前回食った時はそんなに不味くもなかったから思い切ってドアを開けると「 イラッシャイマセー!」の掛け声とともに新小岩の熟女スナックそのものといった風体のウェイトレス陣に迎え入れられた。

アンタ タイゴ ジョウズネー!ワルイ アソビ イッパイ シテルデショー!オトコ エッチ ミンナ スキ!など居酒屋とは思えない楽しい会話を彼女らとしていたのだが、しばらく店内の様子を伺っても福ちゃんの姿が見えない・・。それで「福ちゃんはいないの?」と思い切って聞いたら、金髪ミニスカ熟女はさっきまでのイヤらしい笑みが嘘のようにスッと消え、思い切り戸惑いの表情をし始めたのだ。

フ・フクチャン 二・ニホン イッタ!とドモりながら答えるウェイトレス・・。昨年と言い今回と言いこれで福ちゃんがこの店の従業員達とどういう距離感にあるのか何となく判った気がするが、続くホステスの「フ・フクチャン ビザノ カンケイ アル」という一言に思わず耳を疑ってしまった。




 
店長なのにビザねえのかよ・・。いや筆者はタイで仕事をした事は無いから労働許可証やビザの取得がどう厳しいのかなど知らないで言ってるのだけれど、少なくとも知名度の高い福ちゃんは広告塔として売り上げに貢献してそうだから、オーナーは労働ビザくらい用意するのが当たり前ではないか!と思ったのだ。

ところが金髪熟女は筆者が何を言おうが「エエ、エエ・・」と言うだけで筆者と目を合わせようとしない・・。それで何となく奇妙な雰囲気になってしまったためにお勘定したのだが、店を出るときにふと振り返ると1年前まで福ちゃんが営んでいたラーメン屋台が店の前にあったが、客観的に見てこれって放り出されてるんじゃぁ・・。

そして翌日バンコク在住の旧友M君にこの話をしたところ「その店のオーナーっていうのがこの前話した東日本大震災の義援金を全額ネコババしたって野郎なんですよ!」と言うのを聞いて驚いてしまった。まさか支援キャンペーンの表向きの顔として利用され、突然消えてしまった哀れな男ってのは福ちゃんなのか?と聞いたら、いやっそれは別人です!と答える。

でもあのオーナーは自分より弱い人間を散々利用してあとはポイ捨て!ってスタンスで半世紀以上歩んで来てますからね、福ちゃんも血の最後の一滴まで搾り取られるんじゃないですか?とのM君の結論を聞いるうちに思わず気分が暗くなってしまった。日本に適合できずに安住の地としてバンコクにやって来たのに、そこで朽ち果てつつある・・、筆者が聞いたのは全て又聞き情報だが、これが本当なら大変お気の毒な話としか言いようが無い。






追記)ふくちゃんは日本に帰国し現在はエアコンの取り付け作業の仕事をしているそうです。仕事を覚えてタイに戻る計画だとか。2017.02,12


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説明好きな台湾黒道

まだ新入社員に毛が生えた頃に筆者が営業マンとして始めて担当したのは台湾で、売上の大半を占めたのはエイサーやBenQといった新興ハイテク企業であったが、筆者がいた会社が昔から作っているある特殊な電子部品だけを買い続けた別の業界があって、ここは競合他社もいなかったためか90年代には随分と利益貢献してくれたのである。

その業界とは時計業界、ヨーロッパやアメリカ、中近東にある時計ブランドへOEM供給するメーカーが台湾国内に数十社あって、筆者の会社の製品は針式では無く液晶表示式の時計に結構多く使われていたのだ(ただし台湾の顧客たちは針式、液晶式にくっきり分かれていたわけでは無く両方混在しているケースが多かった)。

そんな中の一社が台北の目抜き通りにオフィスを構えるE社で、筆者は今回自分が新しく台湾担当になりました、よろしくお願いします!と挨拶しに行ったのだが、そこら辺りで八百屋でもやっていそうな冴えない感じの社長の話を聞いているうちにこの会社はなんか変だな・・と思い始めたのだ。

社長が言ってる事業規模だとこんな一等地のビルにオフィスを構えられるはずが無いのである。輸出単価1個10米ドルの時計を月に4万個ほど売ってます!というと年間売上は5億円ちょっとしか無く、この業界の粗利は2割が良いところだから、数十人の工場労働者と数人の事務所スタッフ、さらに諸経費を差し引くと利益ゼロどころか大赤字のはずである。





しかも値引き好きな台湾人にしてはこの社長は筆者の提示した値段を「まあそんなもんだろう」と鷹揚に受け入れている・・。もちろん商才の無い社長というのも世の中いるものだけれども、ここに来た時に最初に感じたカチッとした雰囲気はむしろその逆、つまりビジネスとして巧くいっている会社特有のものなのだ。

それでなんかこの人変だなぁ・・と思っていたのだが、突然「社長!ちょっと失礼します!」と部下らしき女性が部屋に入ってきて耳打ちするなり社長は顔を顰め始め、筆者の方を向いて「悪いが十分ほど席を外す」と言って部屋から出て行ってしまったのだ。そこで一緒に来た台北支店の黄さんという同僚の女性に筆者の疑問を説明したところ「そうですね・・そう言えば確かにこの会社変ですね」と同意した。

その時背後の戸棚に商品サンプルを入れたトレーが沢山積んでるのを発見したのだ。おい!ちょっとどんな時計を作っているのか見て見ようじゃ無いか!と席から立ち上がり、不安そうな顔をして止めようとする黄さんを尻目にガラスの扉を開けてみたところ・・・、ああっ!!!、これは!!なんということだ!!と衝撃を受けたのだ。

そこにあったのはロレックスにカルチェ、オメガにブライトリングなど錚々たるスイス時計の・・・ニセモノなのである(ホンモノならこんな鍵もかけてない戸棚に数百個も無造作に置いとくはずが無い)。しかも高専や工学部出身で金属加工の現場を経験した人間でもホンモノとの違いは見つけられないのでは無いか・・と言うくらい精巧な代物だ。





しかも大変まずいことに十分後に帰ってくるはずの社長が筆者が戸棚の中を覗いている最中に部屋に戻って来てしまい、慌てた黄色さんが北京語で「この人はどんな商品を作ってるのか見たかっただけで!」と取りなしてくれたのだが、この社長は筆者の方を振り向いて「み・た・な・」という表情をした。はい・・見てしまいました。

こりゃエライ事になるぞ・・と心臓が止まる思いだったが、この社長は筆者の方に歩いて来てガラス棚の中から幾つかのトレーを取り出し、それを机の上に並べて「これはなんでも無いんだ!」といくら考えても理解不能な台詞を発言した後、時計を一つ一つ手にとって・・品物を説明し始めたのである。

ディス ロレックス オールモスト セーム!とかブレスレット ストラクチュア ベター ザン オリジナル!などと説明し続ける社長。ひょっとしてこの人はオレに売りつけようとしてるのかな?と思い、生命の保証の為に一番安そうなブライトリング(のニセモノ)を買おう!と言ったら「ウチは輸出専門で、それも1タイプ最低100個からしか売らないんだよ」と断られてしまったのである。

数時間後、台湾支店の中西支店長にこの話をしたら「そいつはお前の事をよほど気に入ったんだな」とちょっと首を傾げたくなる一言の後で、台湾の時計メーカーはどこも副業としてニセモノを作っているけれど、そこまで精巧なブツを、しかも1タイプ当たり最低でも数百万円単位ということはE社の社長はヘイタオの一員に違いない・・と謎の単語を言ったのだ。





ヘイタオってのはね黒道って書くの!ようするにチャイニーズマフィアだよ!日本と違ってヤクザ専業ってのは台湾じゃあんまり居なくて、飲食店に運送業、保険代理店に輸出業者とかみんな表向きの会社を持っていて、企業舎弟っていうより企業ラオパンなんだよ!と面白そうに笑う中西支店長。だけど当時26歳でつい2年前まで世間知らずの設計屋やってた筆者は・・生きた心地がするはずもない。

しかしその後のE社との取引は別段何事もなかったように続き、筆者もこの社長とは少しは打ち解けて話が出来る様になったものの、時々社長が見せる冬のバイカル湖の様な視線には流石に慣れ親しむことが出来ず、1年後に香港支店に栄転して台湾担当から離れた時には正直ほっとしたものである。(ただし香港ではもっとシャレにならない客の担当を押し付けられたけど・・)。

そしてそれから2年後に台湾担当の後任者が別業界へ転職してしまったために筆者は再び台湾担当も兼務させられてしまうのだが、E社の社長はその間に起こった組織犯罪撲滅のための大規模摘発に引っかかりそうになってパナマだか南アフリカへとトンズラしてしまい、結局再会することは叶わずにそのままになってしまったのである。

さて筆者は今でも時々E社の社長は今ごろ何をしてるんだろう?と考えたりするが、あのニセモノ時計の精巧さと真剣そのものの表情で説明する表情を思い出すたびに今でも時計をやっているか、あるいは偽ダイヤモンドや偽ドル札など手の込んだブツを取り扱っていて、自分の作ったスイーツに絶対の自信を持つパティシエの様に「この品物は・・」と今でも誇らしげに説明しているに違いない・・と思っている。






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名も無きラーメンの先駆者

筆者が泊まっているホテルの近くには美味いラーメン屋が2軒あって、九州豚骨系が好きな女房は「青龍」、鳥系好きな筆者は「七星」にそれぞれ別々に毎日通っている。フィリピンにもそこそこ食えるラーメン屋は何軒かはあるが、歩いて1分以内にこういう店が複数あると涙が出るほど嬉しくなってしまう。

それで写真をFacebookにアップしたところ、毎年冬をタイで過ごす旅の先輩K氏から「だったらここの店に行ってみろよ!」と何軒かの名前が書き込まれていて、「今バンコクのラーメンは相当レベルが高いから寿司や居酒屋なんか行かずにラーメンばっかり食ったらどうだ!」という有難いご指摘である。

日本のラーメンが急に海外展開したのはここ10年くらいの話で、今や日本の○○がアジア進出!と聞くと真っ先にラーメン屋だな・・と思い浮かべるほどだが、筆者が香港に始めて赴任した1990年代半ばは日本料理と聞くと寿司!割烹!居酒屋!のどれかであり、ラーメンは亜流も亜流、特に香港じゃ鼻も引っ掛けられなかったのである。

「僕は香港でラーメンは絶対に流行る!と確信したんですよ」と言って自分のこだわりを説明し始める30代前半の店主。時は1995年、香港島の東部にあるクオリーベイの横丁にあるラーメン屋での事である。店名は北海道だかサッポロとかいうこの地域にしては多少大きめの店であった。

筆者はそこから歩いて10分ほどのコーンヒルという大規模住宅に住んでいて、当時は女と別れて独り身だったから顧客との接待が無い日は近所の店で外食していたのだが、この北海道出身の店主の店には週一度くらいの頻度で通っていて、彼とは毎回1時間とか2時間くらいもの長きに渡って話しこんでいたのだ。





何故そんなに長く話せたかと言うと客が全然いなかったからである。当時の香港は返還前で異常に景気が良く、日本料理店は夕方になるとどこも予約で一杯になったと言うのに、この店はいつ行っても客が一人か二人ポツンといるだけなのだ。確かに場所は良くないけれども味は結構いけるのにも関わらず・・である。

実はこの話は以前の日記で書いたことが有るのだけれど、中国人と言うのは自分たちの食文化に無いものに対しては案外鷹揚に受け入れるが、ワンタン麺や牛肉麺と基本コンセプトが同じな日本のラーメンを前にすると途端に保守的になってしまい、「スープが熱すぎる」「麺が縮れているのは気に食わん」「出汁が複雑すぎる」と全否定してしまうのである。

信じられないだろうが当時の香港にはラーメン専門店は数件しか無く(寿司系は軽く二百店はあった)、しかも香港人にも受け入れられるよう味を変えてしまったために不味くて仕方が無い店ばかりで、筆者などはマニラに遊びに行った際に当時マラテのアンバサダーホテル近くにあった「道産子」という店でラーメンを食っては余りの美味さに目頭を熱くさせていたくらいなのだ。

その香港に本格的な札幌ラーメンを、しかも東京人の筆者でもよく知っている名門西山製麺の麺を持ち込んで来たのだからこの店主の意気込みは相当のものだったが、その結果として筆者と何時間話そうが売上には全く影響しない状態が続いてしまったのだ。。

しかもこの店主は陽気な性格な上にやけに前向きで、筆者が香港人が好きなサーモン海苔巻きみたいなメニューを幾つか作らないと客が入りませんよ!と説明しても、ええ、ええ、そうですね・・などと最初はおとなしく聞いているのだが、最後には必ず「でもね!僕は本物の日本のラーメンを!」という何十回も聞かされたいつもの哲学に最後は帰結してしまうのだ。





それで筆者も説得は諦めて、先週行ったマカオの夜遊びなんて話ばかりをしていたのだが、北海道から綺麗で性格の良い姪御さん連れて来て若い香港人男性の客が増えたりしたのだが、ついに1年半ほどたった頃に「実は店を売ることになりまして・・」と言われたのである。

正直その時は言わんこっちゃない!と思ったが、この店主は頑固なところを除けば非常に快活な人物であり、それにたった1年半だったが美味いラーメンを随分とこなれた値段で食べさせてもらったので「ご苦労様でした」と感謝の意を述べ、ちょっと悲しい気分で彼の手作りの味噌ラーメンをすすったことは今でも覚えている。

さてそれから十年たって香港にもやっとラーメン文化が花開き、今じゃ香港人の同僚達が「一蘭の行列に20分も並んじゃった」「なんでもっと色んな店が進出して来ないのかしら?」「日本人は何を手をこまねいてるんだ」なんて記事をFacebookにアップしているが、だったらなぜ君たちはもっと早くクオリーベイのあの小さな店に行かなかったのか?と問いたくなってしまう。

まあビジネスにはタイミングが付き物だから筆者みたいな後だしジャンケンでモノを言うのはルール違反だけど、あの美味しかったラーメン屋が見事なまでに惨敗を喫して撤退していったのは本当に残念としかいいようがない。(これと同じ様なケースでコーズウェイベイの麺太郎という店とフォートレスヒルの名前も忘れた店も見事に撤退してしまった。いずれも90年代の話である)。

さてこの店主は結局最後まで名前を聞くこと無く永遠の別れとなってしまったのだが、あれから20年近くたった今この店主に美味い麺を食わせてくれてありがとう!と感謝の意を述べたい。でもあんた来るのがちょっと早すぎたね。あと10年後だったら今ごろチェーン店のオーナー様になっててオレと話なんかするよりも札束数える方で忙しかったかもしれんよ。






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詐欺師脳なホワイト・トラッシュ

筆者が海外営業部に転籍になるや当時の部長から「お前はこれから毎日英会話を勉強せえ!」と命じられ、強制的に通わされたのがプラディハウスという英会話スクールである。

場所が銀座だけに同じクラスには資生堂や三越などお上品な生徒が沢山いて、高級スーツ姿の彼らが頭に単語が浮かばずもどかしげにしているのは一見の価値があったが、筆者が興味を持ったのは生徒よりも教師の方であった。

いかに派手な服を着ようが体全体から滲み出る貧乏臭さは隠しようがなく、また彼らの話す英語はハリウッド映画のそれとはちょっとイントネーションが違っていて、正直バブル期の銀座のサラリーマンよりも東南アジアの場末のバーでホステス相手に管を巻いている方がお似合いな連中であった。

彼らはプアーホワイト、或いはホワイト・トラッシュと呼ばれる下層白人で、ロンドンのイーストエンド辺りで良く見かける方たち、或いはアメリカではプロレスを観戦しながら本気で怒ってる輩と思うとよろしいが、そこで親しくなったベックウィズというアメリカ人の男の話を聞いてるうちに奇妙な事に気付いたのだ。





彼自身と彼の同僚たちの多くが本国ではマルチ商法や自己啓発セミナーに従事していたのである。もろろん海外で英語を教えるなんて輩にマトモな人間がいると期待する方がどうかしているが、選りに選って詐欺師まがいの連中とは・・と呆れてしまったのだ。

マルチ商法と自己啓発セミナーが実は同根である事は一部の方はご存知だと思うが一応ここで結論だけ説明すると、キリスト教が持つ強力な熱狂性と伝播力に注目した学者が、神様の存在抜きで宗教同様に人間を支配する事は出来ないか?と研究し続け、そこで体系化されたテクニックをベースにしているのが二大イカサマ業種なのである。

そしてこのテクニックはカネになると知った投資家とある巨大宗教団体が出資して幾つもの如何わしい企業が設立され、アメリカ国内でかなりの成功を納めた後でヨーロッパやアジアにも触手を伸ばし、本業以外の客寄せ事業も含めるとアジア地域だけでも兆単位のビジネスに成長しているのだ。

その海外尖兵になっているのがベックウィズらクズ白人なのである。アパラチア山脈付近の貧乏な田舎町生まれという出自と、良くてコミュニティカレッジ卒、普通は高卒という低学歴さ、それと自力で活路を開く能力も無い彼らは結局何かに寄り添って生きていかねばならないのだ。





そこに目をつけたのがマルチ商法や自己啓発セミナー会社なのである。こういった業種では親会員と子会員、教師と生徒という様に上下関係はっきりしているものであり、さらに仕事上スーツやドレスを着る事が多いため、クズ白人達にとっては自分が故郷でずっと溜め込んできた深い劣等感を払拭するのにまたと無い環境になるのだ。

馬鹿にされていた自分を尊敬の念で見てくれる人々がいる、劣等人種だった彼らを高貴なる白人として見てくれるもっと劣等な人種がいる。そして自分が与えたモノを彼らは感謝しながら大枚のカネを支払う。オレは、ワタシは偉大な存在なのだ!と思い込む事ができる。

もちろん彼らは実際には何も編み出しているわけではなく、単に本部のマニュアル通りに粉骨砕身しているだけなのだが、一度満たされた自尊心がまた前に様に枯渇するのには耐えられないから、今度はもっとより強い優越感を求めてさらに深みにハマって行く運命なのだ。

さて昨日の日記で紹介した詐欺師ジュディーといつも一緒に写真に写ってるクズ白人くん、君はその昔おろかにも筆者に正体を明かしたベックウィズと同じ雰囲気を醸し出しているね。無知なカンボジア人に崇められることで君の脳内は奇妙なアドレナリンで一杯となり、すっかり目が飛んでしまっている様だが、殺されないようにせいぜい気をつけたまえ。






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ベトナムとカンボジアで暗躍するフィリピン人女詐欺師

ねえ!見てよ!ジュディーがベトナムで訴えられたんだって!と言うなり女房がフェイスブックの画面を見せた。そのページはベトナム人女性のもので、文面には「あなたは私から1万米ドルをだまし取った!ベトナムとあんたの国の出入国管理局に通報したからもう逃げられないわよ!」という文と共に、ジュディーのパスポートコピーが添付されていたのである。

あの女ついに行くとこまで行ったか・・と思わずため息をついてしまった。このジュディーと言うのは女房の小中学校時代のクラスメイトで、以前に書いた「詐欺師に転落した元女教師」という日記にある通り、この女が犯罪者へと堕ちていくきっかけになった出来事に筆者ら夫妻は深く関係しているのだ。

ジュディーは子供の頃から成績優秀な女で、田舎の優等生らしくマニラの教育大学から公立学校の教師となったのだが、給料があまりに安くて生活して行けないため13年前に夫と子供を残して出稼ぎ家政婦となって香港に来たのである。そしてそこには同級生である筆者の女房がいたため週末になると必ず遊びに来るようになったのだ。

筆者にとってのジュディーの印象は真面目で保守的な人間であり、商売上良く見かけるイカサマ師のように相手に取り入ろうと話を合わせたり、また大袈裟な話をして煙に巻こうとする、あるいはパラノイア的脳欠陥は微塵も感じなかったのだが、しかし一点だけオドオドした物腰とは裏腹に「自分はそこら辺の人間とは違うのだ」という強烈なプライドの持ち主である事が気になっていたのだ。

その彼女のプライドを粉々に砕いたのが如何わしいカナダへの出稼ぎ斡旋業者に引っかかって約100万円だまし取られた事で、ビザ申請当時には夢を語っていたジュディーがどうも詐欺に嵌められた事が判って行くにつれ目もどよんと濁り、やがて彼女自身の精神が壊れて行くのを筆者ら夫婦はずっと見続けたのである。





しかし文無しジュディーにカナダ行き費用を立て替えていたのは実は女房であった事を知った筆者は激昂し、フィリピンのリサール州にあるジュディーの土地を女房名義に書き換える事で何とか債権回収出来たのだが、その後ジュディーはフィリピンに戻るや同郷のフィリピン人を騙す様になり、その後なにかトラブルが発生してベトナムに渡った・・というところまでは聞いていたのだ。

そのジュディーがついにベトナム人に詐欺で訴えられた・・。いやおそらくこんなの氷山の一角にすぎず、被害に遭ったのは彼女の他にも何十人もいるに違い無いが、情報をくれた女房の別の同級生によるとジュディーは昨年ベトナムからカンボジアへと既に移っていると言うから、おそらくベトナムでは他の人物に訴えられてすでにお尋ね者になっていたのだろう。

そして現在はプノンペンにあるアメリカン・ブリッジとかいうインターナショナル・スクールのDeputy Directorなる役職についていると自称しているが、ジュディーのFacebookには何かのシンポジウムに参加している写真も数枚アップされているから、案外と表向きの英語教育者という肩書きは本当なのかもしれない。

あるいはジュディーと一緒に写ってる白人は典型的なホワイト・トラッシュ(下層出身のクズ白人)な顔つきをしていることを鑑みると、この学校自体がアメリカのニューエイジ系自己啓発セミナーが設立したインチキ学校であり、むかし豊田商事に全国の詐欺師が集まったみたいにジュディーも呼び寄せられた可能性もある。

それにしても田舎の優等生から教師、カナダ移住の夢、出稼ぎメイド斡旋業にベトナムで英語教師、そして寸尺詐欺というジュディーの経歴を眺めてみると、筆者の中に朧げながらも「優越感」というキーワードが浮かんできたのだ。最初に会った時に感じた様にジュディーを犯罪へと駆り立てているのは満たされぬ自分のプライドを補うためでは無いだろうか。





他人が自分のインチキ話を真剣な顔で聞いている時には自分が優位に立っていると思うことが出来る。教壇に立てば生徒たちの支配者になれるし、特に英語が全く出来ないベトナム人やカンボジア人の前では自分があたかもアメリカ人になったかの様な優越感に浸ることが出来る。おそらくジュディーは常に上段から他人を眺めていないと気が済まない人間なのだ。

ところが香港に来たら自分より劣等生だった女が自分よりもずっと良い生活をしているのを見るや湧き上がる焦燥感に囚われ、そしてカナダ行きの業者に騙された事に気付いた瞬間にジュディーの中にあった倫理観は崩れ去ってしまい、あとは他人を踏みにじっても何とも思わない歪んだプライドだけのモンスターになってしまったのであろう。

こういう人間を放っておけば第二第三の被害者が出てくるだけである。さらにこのベトナム人女性の勤務先を見たところ鴻池ロジスティックというハノイにある日系企業に勤めていることが分かったので、同じ様に香港でローカルスタッフを使っていた筆者はちょっとばかり協力したくなってしまったのだ。

なのでこういう事は筆者はしたく無いけれども、被害者Ngoc Borahさんが情報拡散を望んでいること、そしてジュディーが自称通りカンボジアのインターナショナルスクールに勤務していれば現地駐在の日本人の奥さんが騙される可能性もありえるので、この犯罪者の実名、生年月日等の情報とパスポートコピーをここに記します。

名前 : Judy Paz Benditahan *旧姓のJudy Castroと名乗る時もある。
性別 : 女
生年月日 : 1972年4月18日
パスポート番号 : EB6651313
勤務先 : American Bridge International School(自称)






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真っ暗なソイカウボーイ

タイ国王の崩御により全国民は悲嘆にくれている!というニュースが世界中を駆け巡っているが、崩御のニュースが流れた瞬間にタイにいた筆者にとっては案外とみんな冷静に受け止めているな・・と言うのが正直な印象である。

金日成や金正日の死去の時にように路上に突っ伏して泣いているとか、直立不動で敬礼しているようなことも無く、単にみんな神妙な顔つきでケータイに見入っていただけで、翌日町中の人が黒一色の服を着ている以外は普通と変わらない一日であった。

ホテル近くのHなマッサージはいつも通り営業しているし、近くのバーやパブでは騒音こそ無いものの普通にサッカーの試合を見ながらビールを飲む御仁で溢れており、居酒屋では普通にビールや日本酒を飲んで管を巻くオヤジ達がいるからなんか拍子抜けしてしまう。

それでソイカウボーイも相変わらず営業してるんだろう・・と思ってホテルからとことこ歩いて行ったところ、これが下の写真の通り見事に真っ暗・・。いつもギンギンギラギラなソイカウボーイが全店漏れなく閉じていて、深夜の地方都市のシャッター街のようになっているのだ。

「オーマイガーッ!」「ジーザス!」「ホワットアファック・・!」を叫ぶ白人たち・・。おそらく週末を利用してオーストラリア辺りから夢のセックス・キングダムへ遊びに来たんだろうが、その王国の淫靡の宮殿が廃墟のようになってしまい嘆き悲しんでいるのである。

まあちょっと東に数百メートル歩けば日本人向けエロ地帯は今でも健在なのだからソッチへ行けば良いんだけど、こういう白人って案外と情報の幅が狭いから「タイのナイトライフは壊滅!」などとツイッターに打ち込んでいるに違いない。

お前らなあ・・せっかく休みを取って来たのにこのザマなのは本当に気の毒だけど、場所が場所だけにゴッドとかジーザス相手に嘆くのは丸っきりお門違いだぞ。こういう時はオーマイブッダとかハイネス、マジェスティーみたいに今回この原因を作ったあのお方に合わせた表現に変えましょうね。






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奢る運命、奢られる運命

女房と二人でソイ33にある居酒屋で食っていると、背後のテーブルから「支店の皆様にはいつも迷惑ばかりかけてしまいまして・・」という声が聞こえてきた。見ると20代と思しき日本人がえらく恐縮した表情で日焼けしたオヤジ相手二人にお酌していて、それを鷹揚に受けていたオヤジたちは頃合いをみはからって「まあこんな色気の無いところで話もなんだから、続きは昨日の店で・・」と切り出したのだ。

その姿を見ていると、一番下っ端だけど会社を背負った気分で飛行機に飛び乗っていた筆者自身の20代の頃が急に懐かしく思えたと共に、この若造は気を使ってくれるオヤジ共がいて羨ましいなと思ってしまった。筆者は17年も香港支店にいたので日焼けしたオヤジ達のようにずっと出張者を受け入れる側に非常に長い間いたのだが、それでもたった1年だけだけれども出張する側だった時があるのだ。

今から23年前に生まれて始めての単独海外出張で台北を訪れた筆者は、到着日の翌朝一番に市内の目抜き通り中山北路にある支店に挨拶に行くと、中西支店長と野沢マネージャー、それと陳という現地マネージャーから「今晩君の歓迎会をやるから客周りが終わったら真っ直ぐここに戻ってくるように!」と言い渡された。

それでオフィスの近くの台湾料理屋で紹興酒を浴びるほど飲み、それから林森北路にあるメモリーというスナックで女性相手にお喋りした後、タクシーの中で中西支店長がうんと気を使った表情をしながら「○○くんも若いんだからやりたいよね・・」と探るような口調で言って頂いたのだが、根が正直な筆者は「ええ、昨日やりました」と返答したところ、車内でエッ!という声が3つこだましたのだ。

実は昨晩ホテルに深夜チェックインした後、そっち方面に大変嗅覚が働く筆者は横道を入ったところにある如何わしいオーラを発散したサウナに入り、いやらしそうな顔つきをしたママさんの吹っかける料金を思い切り値引きさせて台湾美人の肉体と絶妙なテクニックをたんまり胆嚢していたのである。





「サウナ代込みで3000元って言ったら現地人と同じ値段だよ」と陳マネージャーは驚いていたが、それ以前に到着したその晩に右も左も分からない台北の夜の海に一人で突撃して、日本人が絶対に行かないローカル向けのHな店でちゃんと目的を達して来るとは、この若造は一体何者なんだ・・と中西支店長は唖然としていたのだ。

あのねえ・・、日本から始めて出張して来る人の中には怖くてホテルから出れないとか、一人でメシを食えないから毎日一緒にいてくれってのも居るんだけど、どうやら君は違うようだね?と言うから、ええ私は学生時代からインドや東南アジアをほっつき歩いておりまして・・と答えたところ三人はお互い目配せして運転手に筆者の泊まってるホテルへと行き先変更を命じた。お前は一人で勝手に遊びに行け!という事である。

それ以降筆者は放っておいても全く問題が無い存在とみなされ、以降台湾には2ヶ月に一回に頻度で出張したものの筆者のために歓迎会が開かれることは滅多に無く、しかしその一方「いま林森北路で飲んでるからお前も来い!」と真夜中に電話で呼びつけられたり、麻雀のメンツが足りないから来い!、大人数の出張者が来たから接待要員で来い!と言った他、「自宅でカレーを作りすぎたから食いに来い!」というゴミ箱代りの扱いになってしまったのである。

台湾担当として1年が経過した後、筆者は晴れて香港支店勤務へと栄転することになったので業務引き継ぎと顧客挨拶のため後任の山口という先輩と最後の出張に訪台したのだが、最後の日の歓送迎会では「私は長いこと台湾支店にいるが、○○(筆者の事)ほど手が全くかからずに気も使わなくて良い出張者は見たことがありませんでした」という余り嬉しくない言葉をいただき思わず失笑してしまった事を今でも覚えている。

あれから四半世紀が経ち、筆者は自分が接待する側で支払った額を暗算したところ会社員生涯24年間でウン千万円という金額が浮かんだが、一方接待される側として払ってもらった金額はせいぜい10万とか20万円くらいにしかならない事に気づいて複雑な思いになってしまった。まあ自分の懐が痛んだ訳では無いのだけれど、なんか人生損しているような気分が拭えないままでいる。






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バンコクのウツボ男

筆者がバンコクで滞在しているのはスクムビット通りソイ33にあるホテルで、このエリアは日本料理店やカラオケ、それとHなマッサージ屋がいっぱい有るから泊まるならここを置いて他に無いですよ!というタイ在住の友人M君のありがたい指示に従ったのである。

ふだん泊まるのは地下鉄とBTSが交差するアソーク周辺が多いのだが、なるほど他人の話は聞いてみるもので、一駅だけ東のプロンポン地区の方が交通以外は何でも便利であり、今までタイに30回以上遊びに来ているが、こんなメジャーな場所も知らなかったのか・・と自らを恥ずかしく感じてしまった。

それで到着した日に早速ソイ33にある居酒屋に入ったのだが店に入ると客は一人しかおらず、こりゃ店を間違えたな・・と退散しようとすると初老のオヤジが「そのテーブルにどうぞ」とちゃんとした日本語で言うので、まあ日本人の店なら大丈夫だろう・・と思って注文をしたのだが・・これが間違いだった。

まずチューハイは焼酎と言うより眞露、いやもっと粗悪な蒸留酒を使っているらしくとてもじゃ無いが飲めた代物では無いし、串焼き盛り合わせはレアと言うより半生、いや四分の三生焼けで女房はオエッ!と吐き気を催してしまい、煮物は味が甘すぎる上に何か変な臭いが漂っていて、ここで唯一まともな食べ物は冷奴だけという有様だったのだ。

もちろん筆者はワルシャワとカラチ、それとマニラでこれよりも酷い日本料理を食ったことがあるが、少なくともこのバンコクの店は店主が日本人であり、しかも多くの日本料理店が軒を並べるソイ33で商売をしているのである。

店の中でもテレビばっかり見ていて、接客はどう見ても元風俗嬢、それもかなり育ちの悪そうなウェイトレスに任せっきりなのはまだいいけれど、こんな味とサービス基準を決めた店主は一体どういう感覚で生きているのか?と呆れてしまったのだ。





ところが・・翌日筆者の疑問はすぐに解けたのである。ソイ33を紹介してくれた旧友M君と同じソイ33にある別の店で酒を酌み交わしている時に昨夜の居酒屋の話をしたところ「なんであんな店に行ったんですか!」と思い切り叱られてしまったのである(叱るんだったら先に言えよな・・と内心忸怩たるものがあったが・・)

なんでもあの居酒屋はバンコクに数ある日本料理店でも一二を争うほどの不味さで知られていると言うのだが、でもだったら店を継続していけないだろう・・という筆者の素朴な反論に対しM君は「いいえ、あの店主は別の収入源があるんですよ」と言って興味深い話を始めたのだ。

2011年3月11日の東日本大震災の際には親日的なタイ国民の間に「私に出来ることは無いか?」という機運が広まって行ったのだが、それに目を付けたのが件の居酒屋の店主で、バンコク市内各地で義援金集めの派手なキャンペーンを主催したのだが、なんとこの店主よりにもよって集まったカネを全額ネコババしたというのである。

そりゃキミ犯罪じゃないか!と驚いた筆者は、何でそんな男が今でも大手を振って街を歩いているのか?とM君に聞いたところ、募金チームと店主との間には別の人間を噛ませていて、全ての罪はその哀れな犠牲者が全部被らされてしまい、目下そいつは何処かへ綺麗さっぱり消えてしまったらしい。

しかし義援金をネコババしたとしても5年も食いつなぐのは無理だろう・・と言ったところ、あの店主はちょっとビックリする程の金額をポッケナイナイしたんだから客なんか一人も来なくったって店は何年でも続けられるし、それに義援金以外にも色んなサイドビジネスに手を染めていて、店を続けているのもカモを見つける為らしいですよ・・と恐ろしいことを言う。

深海の穴蔵に潜むウツボが目の前を通過した魚にビヤッ!とかぶり付くように、この店主も何も知らずに店のドアを開けた客に声をかけて懐具合を聞き出し、相手が無防備だと悟るや一気に身ぐるみ剝ぎ取るということか・・。全く恐ろしい店に入ってしまったものである。皆さんもバンコクのスクムビット通りソイ33で恐ろしく不味い居酒屋に当たったら直ぐさまお勘定して逃げるように。さもないと獰猛なウツボに食いつかれますよ。






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アユルヴェーダ in バンコク

チェンライのオーバーブルック病院でテラピーを受けて多少は良くなっていた女房の症状がバンコクに来るや再びぶり返したため、あなた!医者はもういいからヒロット(フィリピンの伝統治療)みたいなの無いの!と言うので調べてみたのだが、どの店もタイ伝統の・・などと銘打っているものの単なるマッサージ屋でしかない。

困ったなあ・・と思っていると、突然頭の中に20年以上も前の雑誌記事が蘇った。ひどい腰痛に悩まされた日本人がインドの伝統治療アユルヴェーダを試したところビックリするほど良くなった・・と書いてあったのだ。確かビクトリーモニュメント辺りだった様な・・と思ってネットで見たら、なんと20年前の記事を書いた皿井タレー氏が昨年に再訪録をブログ化していたのである。

BTSアリー駅の1番出口から南西の方向に向かい、目印となるスアンブア学校の周辺を一周歩いて見るとTHAI TRADITIONAL MEDICINE APPLIEDという垂幕を掲げた建物が学校の南西側に有った。なんか古びた役所みたいな門構えだが、ここがインド原産のアユルヴェーダを、あれ?・・だけど看板には「タイ伝統治療・・」って書いて有るよな・・。





しかし垂れ幕をよく見るとAYURVEDAとも書かれてあるので取り敢えず受付に行き「英語出来ますか?」と聞いたところ、オバちゃんが「ええ、私が出来ますし先生も出来ますよ」という答えが返って来て一安心した。実は20年前の雑誌には「英語は全くできない」、また昨年の再訪録にも「タイ語が出来るのなら予約した方が可」とちょっと意味が判然としない書かれ方がされてあったからだ。

それで受付で渡された紙に住所や年齢、症状などを書き込むと「じゃあ診察室に入ってください」と別室に案内され、そこで中年の女医が女房の肩を回したりグリグリ触っているうちに「これは筋肉の疾患ですね。今からテラピー担当が施術します!普通の按摩の様に思うかもしれませんが全然別のものですよ」と言った。

それじゃあその施術を見せてもらおう!と思ったものの、トリートメントルームは原則として患者しか入れないので筆者は待合室でハーブティーなぞ飲んでいたのだが、しかし国王が死んだ翌日だからなのかもしれないが白人2人と車椅子のタイ人の婆さんが来ただけと言うのは余りにも閑散としすぎじゃないか・・。





しかも筆者が前払いした費用は問診とテラピー合計でたったの400バーツ(1200円)ぽっちであり、これだと人件費どころか建物の維持費もペイしない様に思えるのだが、トイレで立ち話した白人の男は「ノープロブレム!ここはグッドスキルを持ったテラピストが多いから安心しろ!」と言っていたので、何か副収入が有るのか或いは莫大な寄付を受けているのだろう。

さて1時間後に施術室から出てきた女房にさっそく腕のほどを聞いたところ、現れたのはターバン巻いた髭面のインド人では無くごくごく普通のタイ人のあんちゃんで、やっていることはチェンライのオーバーブルック病院のリハビリ技師と大体同じなのだが、ツボの位置とギュウッと押す力が思い切り違うのだそうである。

それとここでは他のタイ式マッサージの様にうつ伏せ、或いは仰向け寝る事は無くて、横向きに寝転んで首から左肩、左腕と悪い部分だけをグリグリ揉んで行く、或いは腕をいろんなポジションに曲げたりするだけなのだが、全ての動きに無駄が無く、凝り固まって行く筋肉がジワーンと緩んで行くのが女房にはよくわかったのだそうだ。





ただ皿井タレー氏が言う様にたった一回の施術で驚くほど痛みが綺麗さっぱり消えたわけではなく、帰りの際に医者が言う通り2〜3日に1回の頻度で通い続ける必要が有るそうである。まあ1回400バーツぽっちだし、こっちはあと2週間何にもやることが無いから別に構わないんだけど。

しかしさっきと同じことを繰り返して恐縮だが、この治療院Ayurved Vidyalaiが不思議なのは英語どころかタイ語でもウェブサイトが無いこと、いやそれ以前に広告宣伝の類が全く見当たらない事で、一体全体どうやって集客しているのか、いやもっと言うとビジネスとして継続して行く意思がある様にはさっぱり思えない事なのだ。

ひょっとしたら知る人ぞ知る秘宝の館なのか?あるいは何処かの国の特殊法人みたいに今までは助成金で食って来たが、ツワモノどもが夢の後で来年あたり閉鎖の憂き目にあってしまうのか。本日一回目ながら女房はここの施術を気に入った様だし何より400バーツと安いので、せめて今月末までは息を長らえてもらいたい。



(場所はこの赤い印のついたレストランの左隣です)



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タイ王国Xデーと革命への序章を語った女

大学4年生の夏、希望通りの企業から就職内定をもらった筆者は、さっそく研究室の全ての課題を放ったらかしてタイへと7週間の旅に来たのだが、シーロム通りのロビンソン百貨店の中にある「成田」という日本料理店で昼飯を食ってるうちに、いつの間にか深い仲になってしまったのがニンという仇名の2歳年上のウェイトレスであった。本名はベンジャポーン・ワンサワイタム、潮州系華僑である。

ふつうレストランのウェイトレスは良くて高卒、下手すると小卒とこう言っちゃ悪いが低学歴だらけなのに、彼女だけは流暢な英語を話すので自然と会話する様になったのだが、後で聞いたら彼女はシーナカリーンウィロートという国立教育大学(日本で言うと筑波大の様なものらしい)の卒業生で、学校や民間企業には何故だか不思議な事に就職はせずにバイト生活をしている変わり者であった。

まあ最初は店に通って長話していたのが仕事が終わった後はデートをする様になり、やがて彼女は仕事を辞めて筆者とべったりになって・・とお決まりのコースを歩んでいったのだが、ある時にルンピニー公園内の王族の写真が掲げられた広場にいた時に彼女は奇妙な行動をとったのだ。

一人の王族のパネルに対してだけは手を合わせなかったのである。これは皆さんもう良くご存知のかの人物なのであるが、その時の筆者はタイの王族や歴史については全くの門外漢だったので何の事か判らなかったのだ。それで彼女にこの御仁は何か問題があるのか?と大声で聞いたところ、彼女はシッ!と音を立てて筆者を黙らせ、やがて人が居ない池の方へと連れて行かれたである。





あの男はどうしようもない人間なの・・とまるで重大な秘密を打ち明けるかの様な表情で言うニン。度重なる女性とのスキャンダルに麻薬やアルコール依存症の噂、そして国内のみならず公式訪問先でも引き起こす無礼で無教養な振る舞いなどを説明し始めたのだが、ニンが特に力説したのが熱いドラム缶事件の話であった。

1950年から70年代半ばまでのアジア諸国はどこも共産主義への恐怖心から軍部独裁政権が乱立し、それをアメリカがバックアップするという構図だったのは知ってるでしょうけど、タイにもタノム政権という恐怖の時代があって、明らかに共産革命を唱えている人間ならともかく、ちょっと疑わしいだけでも老若男女を問わず根こそぎ殺害していた時代があったのよ・・と説明を始めたのである。

例えばタイ東北部や北部の貧しい村の小作人たちは当然ながら革命思想に惹かれるわけであり、共産主義者はこういった村を訪れて君たちも革命に馳せ参じよう!と宣撫するわけだが、地主や村長から通報を受けて陸軍の部隊が後からやって来るとまず村人達を全員集めて尋問し、こいつは共産主義者の言うことに頷いていた!などと密告された人間はその場で油が煮えたぎるドラム缶の中に投げ込んで殺すのが常態化していたと言うのである。

ちなみにこの話を新聞社に勤めるタイ人に確認したら「そうだよ、数千、いや下手すると万単位の人間が焼き殺されたんだ。キミは外国人なのによく知ってるな」と言っていたからニンの作り話では無いことがわかったのだが、この共産ゲリラ摘発の名を借りた貧困層への見せしめ的虐殺の陣頭指揮をとっていたのがタノム首相の実子ナロン大佐で、その背後にはパネル写真の王族がいたのだそうだ。





仮にも王位継承権のある人物がそこまで現業、しかもタイ王室の熱烈な支持層である地方の農民達の組織的な虐殺行為に関与していたと言うのは正直今でも眉唾ものだと思っているのだが、タノム政権時を生きた人たちにとってはこのパネルの人物が軍の反共弾圧活動に積極的に関与、というか指揮を取る立場の一人だtら事は公然の事実らしい。

これが本当ならイディ・アミンみたいなイカれたサディストが王族の最重要人物として産まれてしまったというトンデモ無い話になってしまうのだが、ニンがかの人物について分かる人には分かるある特定の単語を交えながら憎々しげに語る様子を見ているうちに、国立の教育大学を卒業しながらも教師にも公務員にも、はてはオフィスガールさえにもならなかった理由がこの時ようやくと判ったのである。

「今の国王が亡くなってあの男が即位したら革命が起るの!」とニンは確信を込めた表情で言ったが、あれから28年が経過した今、ついにその時が来た。昨日午後7時の国王崩御の報を聞いた時に、筆者に対してタイの国内の多くの矛盾と国民幸福の阻害要因になっているのは実は王室なのだ!と真摯に説明してくれた彼女のことを急に思い出したのである。

さあ次はどう出るかな・・と今はもう何処にいるのかさえも判らないニンに対して呟いてしまう筆者。タイが好きで好きでたまらなかったのに仕事ではこれが全くと言っても良いほどご縁が無かったのだが、筆者のタイ旅行中にこの悲報がもたらされたのは何かの縁なのかもしれない。それで国王の容態が危ないと聞いた昨日朝一番にビザ期間ギリギリまで滞在を2週間延長していたのである。ニン、キミが言っていた事が起こるのかどうか同じ空の下でしかと見届けることにしよう。






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化け猫ユーピン

今から四半世紀前の夏の日、会社に入って3回目の夏のボーナスを懐に入れ颯爽とバンコクへと旅立ったのは良いが、やはり学生時代の貧乏旅の癖からか泊まっていた結構立派なホテルが全然肌に合わず、結局途中でチェックアウトしてチャイナタウンの安宿ジュライホテルへと戻って来てしまった事がある。

しかし最後の滞在から3年も経てば馴染みの売春婦やホアランポーン駅のソムタム姉ちゃん達もいなくなってしまうもので、何と無く体の大切な一部が無くなってしまったみたいな喪失感がじわじわと広がっていったのだが、夕方何処かの売春宿からホテルに戻ると入口周辺で懐かしい顔を見つけたのだ。

ユーピンという屋台を広げているオバちゃんである。筆者は昔この屋台で炭焼きの貝や鯖、エビを肴にメコンウィスキーを毎晩のように飲んでいて、ユーピンと妹、それと石を投げれば届く距離にある看板屋の事務員をしているソムという美人の姉とよくバカ話に興じていたのだ。

あれー!あんたタイに戻って来たの!と嬉しそうに言うユーピン。因みにオバちゃんと言っても老けて見えるだけで実際のユーピンは29歳とまだ若く、その気さくで開けっぴろげな性格から多くの日本人に慕われていたのだが、実は彼女には他人には伺い知れないもう一つの顔があったのだ。

「おい!早く開けてくれよ!」とドンドンとドアを叩くルームメイトの怒鳴り声。それは3年半前の筆者の学生時代最後の旅も終わりに近づいた頃の事で、ドアを開けると脂汗を大量に垂らした旅の先輩K氏がドッと流れ込むように部屋に入って来て、「いやあ、重かったああああ!」と地響きのするような声で言ったのだ。

一体どうしたんですか?とK氏に尋ねたところ、「いやっ、実は今日ユーピンに誘われるがまま一緒に映画館に行ったんだがな、映画館のライトが落ちて暗がりが広がっていくに連れユーピンがオレの側にすり寄って来るや手を握り始めて、それでオレの手を彼女の・・」とちょっとここで書くのが憚れる様な事になったと言うのである。

あのユーピンがですか・・?と筆者は驚いてしまったが、そう言えば彼女がタイの男の性質の悪さに絶望していて、出来れば外国人と結婚したいのだ・・と言っていたのを思い出した。そう考えると色黒でブヨンとした体型だが何と無く男好きのする顔つきをしているし性格的にもかなり濃そうだし、年齢的にも言わば女盛りに入った頃だから十分あり得る話だ。

それで運悪くユーピンの標的になったのがK氏で、暗がりに紛れてついに化けの皮を表しやがったということらしい。なおK氏はユーピンが原因かどうか知らないがその晩タイ最南部のタルタオ島へと旅立ってしまい、一人残された筆者は以降ユーピンの屋台には近づかず遠巻きに眺めるだけにしたのだ。

そのユーピンとの3年ぶりの再会である。さっそく路上に設けられた椅子に座り焼き貝を肴にビールをやりながら近況を話していると、そこにユーピンの妹がヒョイと現れて「ねえ、あんた明日の昼ヒマならあたしと姉さんと一緒にサイアムスクエアに遊びに行かない?」と誘われたのである。

前述の通りユーピンは化けて出る性質を持っているが、妹は割合と美人で清楚な感じなのと、何より昔の知り合いがみんな居なくて寂しさを感じていたから正直渡りに船である。それで快く了承したのだが、これが重大な失敗で有ることに気がつくのはそれほど時間がかからなかった。

翌日待ち合わせ場所を間違えて大幅に遅刻して現れたユーピンはいつもと違ってかなりめかし込んでおり、さらにいつもハイテンションだがこの日はさらにオクターブが一段高く、昼メシのため入ったカントンレストラン(タイ風しゃぶしゃぶの当時の有名店)では席に着くなりビールを注文し始めたのだ。

それで「君が酒を飲むところ見たこと無いだけど・・」と聞いたら、今日は◯◯(筆者の名前)がいるから特別なのよ!とユーピンの妹が意味ありげな笑みを浮かべて言う・・。思わず背中に冷や汗がツーッと伝わるのを感じたが、まあこんな公衆の面前で化けやしないだろう・・とたかを括り食うことに集中することにしたのだ。





1時間後・・、筆者のそばにしなだれかかって饒舌に「アンタは日本よりタイの女の方が合うタイプなのよ!」と言い続けるユーピン。すでにアルコールの酔いが回ってかなり大胆に燃え上がり始めた様だが、その反対に筆者の心は冬のバイカル湖の様に冷え切っていたことは言うまでもない。

そしてここでユーピンの妹から「あたしはここで失礼するけど、あなたはお姉ちゃんと映画を観に行ったらどうか?」と遂に出たな!なセリフが発せられたのだが、予めこういう事態になるかも知れない・・と予想していた筆者は1秒、いや半秒の気まずい沈黙時間も与えずに「いや、実は君たちとの再会の記念にプレゼントを買いたいと思っているのだ」と言ったのである。

当時筆者が足繁く通っていた池袋や錦糸町の大衆キャバレーにはユーピンみたいな顔も情も濃くて乱れちゃうタイプの女が結構多く働いていて、彼女らは揃いも揃ってハンドバッグや香水、それも見てくれは立派だが案外とチープな品物に目が無いことを筆者は身を持って知っていたのだ。

それで待ち合わせ時間よりも1時間ほど早く来てお隣のMBKセンターを下見し、だいたいここら辺までなら損害として許容出来そうだ・・という店を3〜4軒目星を付け(高くても二人分で1万5千円くらいだった)、プレゼントのお勘定が済んだタイミングで「では自分はここで・・」と逃げる計画だったのである。

流石にモノをくれるという申し出を断る女も居ないから、妹も筆者とユーピンを二人だけにさせること無くMBKセンターへとついて来たのだが、MICHELLE RENEやCHARLES JORDANなんて派手だけど実は安い店に行っても喜んでるのはユーピンだけで、妹は何か所在無さげでいる。確かにいつもジーンズとTシャツ姿でいるから、こういう品物には興味が無いのか・・。

それで今度は時計屋やレコード屋、ついには電器屋にまで行ったのにそれでも妹は興味を示さず、ユーピンは調子付いて「せっかくのチャンスなんだから!」と攻め立てるが、その一方でいつの間にか筆者の腕にねっとりとユーピン自身の手を絡めて来た上、身体を密着するようにしなだれかかって来るし、妹はと言えば「やっぱりあたしは帰ったほうが・・」とまた言い出すのである。

ふとユーピンの方に顔を向けるとウットリした目でジーっと筆者の顔を見つめていたのだが、目が合ったすぐ後に歯茎を丸出しにしてニヤリと笑うその姿は鬼才リドリー・スコットの「エイリアン」に登場する爬虫類系異生物の様であった。表皮が剥けてヌメリのある皮膜がついに現れたようだ・・。

いかん・・このままではこの化け物に言い寄られてしまう!と慌てた筆者は「遠慮しないで何でもいいから早く選べ!」と半分怒りながら言ったところ、さっきまでモジモジしてた妹が「本当にいいのね?だったら前から欲しかったものが一つだけあるんだけど」と何か溜め込んでいたものを吐き出すような口調で言ったのだ。

10分後、MBKセンターの上の階にある金行(純金製品ショップ)にいるユーピン姉妹と筆者。さっきまでのモジモジ感は完全に吹きとんで腕輪やアクセサリーを手にとっては店員と派手にやり取りしている妹と、同じように目の色変えて金製品を掴み取るや「もっと太い腕輪は無いのか!」と捲したてるユーピンを見ながら憮然とした表情で佇む筆者・・。

爆発するのを抑えながら代金10万円を支払うと「ではオレはここで・・」と切り出したが、ユーピンは筆者の腕をとって「ごめんなさい!高い買い物をさせちゃって!」とすまなそうに謝ってくる(と同時に身体を絡めようとする)。しかしここでアタシの身体でお礼返しを!などと言われたらもっと困るので、思い切りニッコリと作り笑いを浮かべながらその頃流行っていたトレンディドラマの俳優の様に颯爽と踵を返したのである。

あの頃の金価格とタイの物価水準を考えると多分今なら50万円くらいに相当する贈り物をしてしまったわけで、この出費のために筆者はその頃ハマっていたタニアのクラブ桜のゴブという女とパタヤに遊びに行く計画は断念するしかなくなってしまい、福ちゃんという居酒屋で一人憤然として酒を煽っていたのである。

しかしあれから25年が経ってあの頃よりも幾分か金持ちになった筆者は、あのユーピンの上目使いな淫らな目と体全体から発していた異様なオーラ、そして舐め回す様にしつこく絡みつく視線を思い出す度に、あの時失ったかも知れない大切な何かを考えれば10万円は随分と安い出費であり、ちっとも惜しくなかったという思いを強くするのである。






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シャトルバンの謎の男

チェンマイで筆者ら夫妻が滞在しているのはル・メリディアンというフランス系のホテルで、ここは市街地のど真ん中にありながらも設備が随分と充実しており、それでいて案外と静かなためもともと高級ホテル好きな女房は大満足でいる。

しかし生来買い物好きな女房は空港近くのセントラルプラザというショッピングモールに行くのもこれまた大好きで、さらにこのモールはチェンマイの主要ホテルをむすぶ無料シャトルバンが一時間に一本くらいの頻度で出ているため、大した用も無いのにヒマを見つけては頻繁に訪れているのだ。

ところがシャトルバンで毎回必ず奇妙な人物と乗り合わせる事に気付いたのである。その男は四十代から五十代前半の白人の男で、筆者の目にはイスラエル人かロシア在住のユダヤ人に映るのだが、こいつはチェンマイ一番と評判の高いシャングリラホテルから乗車すると他の乗客に話しかけてくるのである。

自分はサンフランシスコからやって来たアメリカ人でシャングリラホテルに3週間ほど滞在しているのだが、すっかりタイに魅せられてしまい最近不動産を買ったのだ!と毎回乗り合わせた人間に説明しているのだが、これが聞いていてなんだか怪しいのである。

まずこの男はシャングリラに滞在している割にはえらく貧相な身なりと顔つきをしている上に、英語はどう聞いてもアメリカンネイティブではなく、さらにたった20分の乗車にも関わらず席に着くやタイ語教科書を広げて皆の目に付くように学習しはじめ(見ているのは毎回同じページだから明らかに注目を集めることを意図している)、そしてバスにアメリカ人がいるのにも関わらず話しかける相手は何故かアジア人だけなのだ。





実は筆者の女房もモールからの帰りの便でこの男に話しかけられた口で、その時は今回購入したアパートの塗装が悪くて・・などと言って袋の中のペンキの缶と刷毛を見せたのだが、会話に割り込んだ筆者の英語を上手だね!とこの男が言うので「ロサンゼルスにいたことがあるんですよ」とウソを言ったら急に黙り込んでしまったのだ。

そして翌日の朝一番の便にもやっぱりこの男は搭乗して来て、昨日挨拶程度の会話をした筆者ら夫妻がいるのにこれを平然と無視してはシンガポール人らしき女性に向かって「君のネイルアートは綺麗だな」言って会話のきっかけをつかみ、そして例によって自分はサンフランシスコから来て・・と話し始めたのである。

さらにその帰りの便でもこの男とまた乗り合わせたのだが(一体この男は一日何往復してるのだろう・・)、今度は不思議なことに住宅関連ではなく何故か松葉杖を買い込んでいて(この男の身体に異常は見られない)、それを奇異に思ったらしき台湾人の女性に話しかけては例によって例のごとくご自分の話をおっ始めたのだ。

あいつ詐欺師かしら?と女房は言うが、シャトルバンの中の出会いなんかで金など引っ張り込めそうにないし、かと言って彼が声を掛けた女性陣のご面相を思い返して見てもナンパとはとても思えない。じゃあやはり言葉通り住宅資材を買い集めている寂しい男なのかな?とも思ったが、それなら買い物リスト片手に車をチャーターして一気に買いまとめた方が便利なはずだ。

と言うわけで筆者ら夫妻はあの白人が一体何をしているのか今だに理解できないのである。残念ながら筆者ら夫妻は本日チェンマイを離れるので、もしもこれからチェンマイに来る方がこの日記を読んでいたら、シャングリラホテルからシャトルバンに乗り込んで来る米俳優ジェームス・カーンを貧相にした感じの男を見つけたら「あんたは何をしたいのか?」と聞いてみて欲しい。







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ジュライホテルの天使ポンちゃん

香港の日系業界団体の会合で出会った地方銀行勤務のY君と水割りグラスを片手に立ち話をしているうちに、彼もまたバンコクの伝説の安宿ジュライホテルに滞在した事があって、しかも筆者とは半月ほど時期が重なっている事が分かってお互い大喜びした事がある。

でも・・失礼ですがお顔を拝見した覚えが無いんですが・・というY君に、そりゃあの時オレはロビンソン百貨店の成田という日本料理屋にいた女と付き合ってて、朝から晩まで彼女と一緒に外出してたからね・・と答えると、えっ!現地のガールフレンドがいたんですか!羨ましいなぁ・・と朴訥した口調でY君は言った。。

話を聞くとどうやら彼は「地球の歩き方」を字でいく真面目な学生ツーリストで(元高校球児で旧帝大から地銀という経歴が彼の性格をよく物語っている)、ヤク中と売春マニアに人格破綻者だらけのジュライホテルでは少数派に属していたようで、冷気茶室なんて悪所には行ったことも無いのだと言った。

しかし楽しそうに昔話をするY君の口から突然ポンちゃんの名が出た時に思わずハァ?と思ってしまった。ポン、あるいはポームと呼ばれた彼女はジュライホテルに住み着いた売春婦かつ麻薬密売人、さらには自身も薬物中毒者というどうしようもない女で、筆者は彼女と関わり合うのを避けていたからである。

過去何度か日記で書いたとおり筆者だって女やクスリを嗜んでいたから別に彼女の生業を軽蔑していたわけでは無い。筆者が嫌悪したのは彼女がいつも多くの日本人とつるんでいるのを見る度に、右も左も分からないY君みたいなウブなツーリストをだまくらかしている狡賢い女に見えたからである。





それに筆者はある時彼女からズベ公みたいな口調で言いがかりをつけられ「なんだオマエは」と逆上しそうになったところを一休さんという渾名の日本人の爺さんが気がついて慌てて引き離すという一幕があったため、以来彼女と顔を合わせる度にシッシッ!と野良犬のように追い払っていたのである。

そのポンちゃんを懐かしそうに語る善良そうな男が目の前にいる・・。しかも彼の中でポンちゃんはまるでマドンナのような存在、とても美しい思い出に昇華していることに驚いてしまい「いや・・キミねえ・・」と反論する機会を逸してしまうと共に、どうも彼女の実像は筆者が思っていたのとは違うのでは無いか・・と思えてきたのだ。

ちょうどインターネット黎明期だったので後日「ジュライホテル」「ポン」で検索したところ、これがまあ出てくる出て来る・・、ちょっと信じられないほど多くの人が彼女との思い出をとても懐かしそうに描いていて、中にはポンちゃんコーナーなんてのがあって、そこには日本人と嬉しそうに戯れた写真や、ヤクで捕まって留置場にぶち込まれている写真(保釈金を払って引き取りに行った日本人が撮ったらしい)、さらにシンナー吸ってラリってる写真などと共に彼女の経歴が出ていたのだ。

そのウエブによるとポンちゃんは子供の頃に両親に売られて売春婦になったが、どう言う経緯か知らないが日本人と結婚し一時期日本のどこかに暮らしていた事があるらしい。だから日本語が上手だったのか・・と納得したが、結局この結婚も破綻してしまいポンちゃんはタイに戻ってきたものの故郷には戻らずに日本人の文無しバックパッカーと破綻者が集まるジュライホテルに流れ着き、そこを住処にしてしまったのだ・・と書かれてあった。

そして彼女に関する記述や多くの人の思い出話に目を通した筆者が確信したのは、彼女の日本語能力と見た目の良さを駆使すればもっと他の場所で稼げたはずなのに何でよりにもよってジュライホテルなんて怪しげな場所にいたのか?という理由は、彼女は基本的に日本人が好きで、そして自分と同じ目線に立ってくれる日本人を求めていて、彼らと一緒に自堕落で享楽的な毎日を過ごすことによって彼女自身が癒されていた・・と言うことであった。





出会った日本人と酒やシンナーをやりながらバカ話に興じ、相手がセックスをしたければ体を与え、ヤクが欲しければ他所から仕入れて来て売るけれども、そこで得るカネはあくまでも副次的な目的でしかなく、彼女は自分をちゃんと直視してくれる日本人とくだらない毎日を過ごすことが何より大好きで、そんな刹那的な生き方をいつまでも続けたかったのだと思う。

数日前の筆者の日記で、幼い頃に両親に売られ、自分の意思ではなくて売春婦に堕とされた女が白馬に乗った王子に助けられて幸せな家庭を築こうとしても、結局は自らの手でそれをメチャメチャに壊してしまい薄暗い闇の世界に戻ってしまう話を書いたが、同じような人生を歩んだポンちゃんにとってジュライホテルは等身大の自分でいられる場所だったに違いない。

しかし彼女について書かれたウエブの最後に「悲しいお知らせがあります。ジュライホテルが1995年に閉鎖されたのと歩を合わせるようにジュライが誰よりも好きで、ジュライのアイドルだったポンちゃんが翌年死んでしまいました。死因はエイズでした」という悲劇的な結末で締めくくられているのを見た時に何かが筆者の胸がギュッと掴むのを感じた。

そうか・・オレはあんたの事を誤解してたよ。あんたはオレに話しかける取っ掛かりを探していただけなのか、それともあんたを人間として見なしていなかった連中と同じ臭いをオレから嗅ぎ取って若い頃の屈辱感を蒸し返してしまったのかも知れんけど、とにかくあんたを野良犬みたいに追い払ったのはオレが悪かった、謝るよ。

でも世の中死んだらそれっきり忘れ去られてしまう人間ばかりだと言うのに、堅物のY君や掲示板に書き込んている沢山の日本人達の思い出の中にこんなにも残れて、それに今でもこうやって思い出してくれる人がいてくれるなんて最後は本当に幸せな人生だったじゃ無いか。あと20年もすればオレたちもぼちぼちあの世に旅立ち始めるから、それまでは大好きなシンナー袋をスーハーさせてあの世のジュライホテルで待っててくれ。






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あともう一列、もう一歩

生まれて始めての海外旅行があと数日でお終いとなる1988年3月末のある日、筆者は6週間に渡るインドでの厳しい旅を終えてバンコクへと立ち寄ったのだが、このたった1週間の出来事が筆者のその後の人生に決定的な影響を与えることになった。

バンコクで滞在したのは下町ヤワラートにある伝説の安宿ジュライホテルで、ここにいるのは筆者の様な真面目な大学生よりも日本社会から完全にドロップアウトした連中や、松尾芭蕉の様に旅が住処となってしまった男に、女買いだけが目的のエロ親父とヤク中、それとどう見ても精神に異常をきたしている破綻者の方がはるかに多いのだ。

しかし筆者は狂犬病のワクチンを打ってくれる病院探しや冷気茶室のガイドを買ってくれた男たち、そしてゴザ屋台で再会したインド・ゴア帰りのヤク中大学生などと一緒にいるうちに何故だか知らないが彼らに底知れぬ魅力を感じてしまい、奇妙な事にずっとこのままこのホテルで過ごしたい・・という願望が湧き出てしまったのである。

それはおそらく筆者がボヘミアンな性質を多分に持ち合わせていて、自分が心の中で渇望しながらも自身の臆病さのために決して踏み出すことの無い完全なる自由を彼らが体現していた様に見えたからなのだが、しかし筆者のこの自由を感じる時間にもタイムリミットが迫りつつあったのだ。





帰国して就職活動をしなければならなかったのである。当時はバブル景気に差し掛かった時期で売り手市場だったから、そこそこの大学に通っていれば8月の就職解禁日に企業訪問しても希望通りの会社に潜り込めることができたのだが、筆者の選考科目は当時はそれほどメジャーでは無い上に企業数も限られていたため、それを生かすなら教授推薦がどうしても必要だったのだ。

教授と学生世話役の講師を交えた推薦枠面接が4月の第2週に控えていて、筆者はそれに間に合う様に4月5日発のイラク航空で帰らなければならないのだが、でもどうしてもあと1ヶ月、いや例え1週間でもいいからここにいたい!とみみっちくも思う様になったのである(今考えるとそんなの放ったらかしにすればいいじゃん・・と思うだけだが・・)。

それでどうしたのか?と言うと、筆者は実にチンケな方法、つまり飛行機がオーバーブッキングで乗れなかったから仕方が無いでしょ・・という手を使うことにしたのだ。当時イラク航空は(リコンファームしたにも関わらず)平気でキャパシティーの10%増くらい予約を受け付けてしまうことで悪評が高く、しかもバンコク=成田間は週一便しか飛んで無いから上手くいけば費用は向こう持ちで1週間余分に滞在できるかもしれない。

繰り返すがちゃんと自分の意思で1ヶ月でも1年でも延期すれば良いだけなのだが(その場合就職は自力で探すことになってしまう)、小ずるくて度胸の無い筆者は全部航空会社のせいにすることで教授への対面と就職の推薦、そして自腹を痛めることも無くもう1週間だけついに巡り会えた楽園での滞在をせしめようとしたのである。





4月5日早朝、早めに荷造りを終えると階段を上ってホテルで知り合ったボヘミアン達に挨拶に行き、今から自分は飛行機に乗りっぱぐれに行ってくる、そして必ずここに帰って来る!と言うと、25才の眼鏡をかけたボヘミアンが怪訝そうな表情をしながらも「ああそうなの、上手く行くといいね・・」と言った。不思議なことにこの時の何でもない光景は何故か今でも筆者の記憶に残っている。

ホアラムポーン駅から電車でドンムアン空港へ行き、イラク航空のチェックインカウンターに出発2時間前に行くと(乗るつもりが無いのだから時間通り行く必要は全く無いのだが・・)みんな席を確保するためか既にもの凄い人数が並んでいる。その列に一旦は並んで半分くらいまで来たら「ちょっとトイレ!」と言って列を離れるのである。

前に行ったらスッと列から外れて最後尾に並び直す。これを何度も繰り返したが前にいる乗客はちゃんとボーディングパスを貰っているからオーバーブッキングになるにはまだ早い・・。そして遂に一番最後の最後、もうこれ以上誰もいない!という段になって「いざ決戦!」の思いでチェックインカウンターに行くと、担当の女が「ちょっと待ってください!」と言って席を離れるや上役らしき男とプリントアウトペーパーを手に何やら話し混み始めた!。

やった!ついに乗りあぶれたぞ!向こうがホテルを手配いたします・・と言ったらジュライホテルにしてくれるかな・・、まあ金だけもらえた方が有難いんだが・・、あと教授への説明のための書類ももらわんと!などとタヌキの皮算用をしていると、担当がツカツカとハイヒールを鳴らして目の前に戻ってきて、そしてニッコリと微笑みながらボーディングパスをカウンターに置くと「F」の文字を指差した。





1時間後ファーストクラスの乗客として窓からうっすらと消えて行くバンコクの町並みを眺める筆者。イラク人の美人スチュワーデスたちが「あなたはなんてラッキーなんでしょ」と微笑みながら言うが、筆者は心の中で「ふざけんな!」と泣き喚きたい思いであった事は言うまでもない。自分の居たらなさを他人のせいにしようとすると、得てしてこういう結果になってしまうものらしい。

帰国して大学に戻った筆者は推薦枠選定を見事パスし、現在台湾の会社に乗っ取られてお先真っ暗だが当時は筆者の専攻分野で著しい成長が期待されていた大阪の電機会社の研究開発職の仮内定を戴いたが、どうしてもタイ、いやもう海外ならどこでも良いから違う世界で人生を過ごしたい!という欲求が抑えることが出来ず、結局研究室のお偉方から総スカンを食いながらも海外に行けそうな別の会社を選んだのである。

そして大学4年の10月と2月にそれぞれ7週間ほどタイを旅して、就職してからもヒマをみつけてはタイに来て、そしてタイ駐在には遂に巡り合わせが来なかったものの香港に通算17年も駐在して、ヨーロッパやアメリカどころかロシアやパキスタン、ドバイにイスタンブールなんて土地にざんざん行って、フィリピン人と結婚して今度はマニラに4年住んでも、あの時の渇望感と喪失感は一向に癒える事がないのだ。だから筆者は今でもタイに来るのである。

一度切ったカードは元に戻すことが出来ないように、人生の選択も本筋を少しでもずらした処で安易に妥協してしまえば結局は何もしなかったのと同じである。おそらくあの時筆者が自分の意思で残留すれば、ジュライホテルの住人たちが楽しみにしていたチェンマイの水かけ祭に同行し、やがて帰りのチケットも何もかも破り捨ててタイの片隅でボヘミアンになっていたのだろうが、その方が自分らしい人生を歩めたのでは無いかと遅まきながら今は思っている。






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オーバーブルック病院 in チェンライ

チェンライに来てから筆者ら夫妻が日参しているのは寺でもマッサージでもエレファントトレッキングでも無くオーバーブルック病院である。チェンライにはもう一つカセムラート・スリブリンという私立病院があって最初はこっちに行くつもりだったのだが、ホテルの受付が「オーバーブルックの方が腕が良いですよ」と言うのでここを選んだのだ。

さてタクシーで入口に乗り付け「英語が出来る人を!」と呼ぶと、たちまちヒラヒラした服を着たね〜ちゃんが現れて「どうしましたか?」と聞いてくる。そのあと登録から体温検査、血圧などの手続きが驚くべきほどテキパキと進み、たいそう混雑しているのにもかかわらずものの10分で完了し、あっという間に形成外科医の前に座ることができた。

はいこっちに動かして!はい今度はこっちの方向に!と女房の左腕をグルンと動かすや「これは筋肉裂傷だね。骨には異常無いね。今からリハビリセンター行ってテラピー受けた方が治りが早いよ」と流暢な英語で言う医者。長年色んな職人や技術屋を見てきた人間ならすぐに嗅ぎ分けられるプロの匂いがこの男からプンプンする。

それとリハビリセンターの主任らしきオナベの女がこれまた女房の症状をあっという間に見抜き、はい!ここを押すといたけど我慢してね!とか横になって!と言って女房の体をギッタンバッタン動かし続け、そのあとショックウェーブとか言う機械にかけるとアラ不思議・・。今まで痛みも何にも感じなかった左手5本の指のうち3本に感覚が戻ったのである。

数日前まで通っていたバンコク病院チャイナタウン分院は設備とお勘定は超一流でも医者の腕は正直二流以下だったが(2回通ったがちっとも良くならなかった)、ここオーバーブルック病院は随分古びた感じで客層もそこら辺の市場にいそうなオッちゃんオバちゃんで溢れているけれども、ホテルマンが言ったとおり腕は確かなようである。

この病院はいいわね!と感動した女房は自分の怪我はさておいて「天気が悪いから何処にも行けないでしょ!」と言い張り(お前がついて来なけりゃオレはもっと楽しめたんだ!)、リハビリセンターの5日間コースを早速申し込むや毎日朝早く起きて病院に通うようになったのである。

なんか今回の旅は観光ではなく女房の治療が目的になってしまったが、もしも肩や腰に持病を抱えている方がロングステイを考えておられるのなら、ここチェンライのオーバーブルック病院に通われることをお勧めする。なおここはカトリックが非営利目的で運営しているため費用は予想したよりも遥かに安かったですよ。






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ヤワラートのチャイナタウンホテル

今回の旅で最初の3日間滞在したのはバンコクの下町ヤワラートにあるその名もずばりチャイナタウンホテル(中国語名「中国大酒店」)である。いつもバンコクではスクムビットあたりにホテルを取るのに何故こんな不便な場所にしたのかと言うと、今から30年前にここから目と鼻の距離にある伝説の安宿ジュライホテルに出入りしていて、老境に差し掛かった今ちょっとばかし昔の思い出に浸りたかったのだ。

さて空港からホテルに到着するや女房が「なに!このホテル!」と物言いが付いた。周辺は小汚い商店が密集している上にねぶた祭りの様なパレードが練り歩いていて、ブンチャカ!ドンチャカ!とうるさい事この上無い・・。ホテルに聞いたところベジタリアン祭りとかがちょうど始まったところで、なんと今日から10日間毎日欠かさず続くと言うのである。

ルームキーを受け取って部屋に入ると値段相応の安普請さは隠しようが無く、こりゃ女房はさぞかしご立腹だろうな・・と思ったが、ふとエアコンのリモコンをオンにしてもウンともスンとも反応が無いことに気がついた。それで受付に電話するとハウスキーピングのオッちゃんがチップ欲しさにたちまち現れ、今からエンジニアが来るから待っててくれ・・と中国語で言う。

それから1時間・・、3人の男がえっちらおっちらエアコンのカバーを開けて中身を分解したり空調パイプを口に加えてスーハースーハーしたりしたが、ついに長老格の親父が「このエアコンは治りませーん!」と白旗を上げた。お前らなあ・・こっちはこの糞暑い中1時間も待ってんだぞ!。隣の部屋が空いてんのなら最初からそこに移せばいいだろうが!

そして夜中まで続くブンチャカ!ドンチャカ!に加えてバンバンババーン!というけたたましいシンバルの音と、25度だと異常に寒く26度なら生温さを感じてしまうエアコンに悩まされなら一夜を明けると朝食の時間となったが、これがまた中国の地方都市に良くある様な安っぽい品揃えで、コーヒーは苦すぎるわりに他の食材はちっとも味がしないという代物だった。





まあそれでもハム、ソーセージにトーストくらい食うかと皿やナイフを取りに行ったが、そこに何故かフォークだけないことに気がつき、ウェイトレスにフォークが無いぞ!と英語で言ったら意味が分からなかったらしく、何人か集まって鳩首会議を始めたのだが、ついに最後までフォークが無いことを知覚できず、何故かガラスコップを筆者のもとに運んできた。

しかし・・このあまりのダメさが女房の笑いのツボにはまったらしく、アタシこのホテル好きだわ!などと言いだしたのだ。お前それは正気か?と思わず聞き返したら、あたしが香港に来たばかりの頃みんなで中国の田舎に遊びに行ったんだけど、そこのホテルもこんな感じだったのを思い出したのよ!と変なことを言う。

そう言えば筆者が学生の頃カルカッタやベナレス、インド最南端のコーバラムビーチやタイ東北部のコーンケーンやスーリンで泊まったのもみんなこんな感じの宿で、そこの施設も従業員も必ず最低一つは欠陥があって、それを指摘すると決まってトンチンカンな対応をし始めるのに閉口しながらもそれを楽しんでいた覚えがある。そうか・・あの時と同じか・・。

もうビジネス出張では無く旅自体を楽しむようになったのだから、あの時と同じトンチンカンな目に逢うのはむしろ歓迎すべき事じゃ無いか・・と気がついて思わず笑い出してしまったのだ。どうも長い間会社の金で快適な旅をさんざんさせていただいたおかげで旅の楽しみの軸がずれてしまった様だ。

そうしたら不思議なもので、さっきからエアコンがガタガタピシピシしていて、あたり一帯に排気ガスと香辛料の匂いが立ち込めるこのホテルが急に好きになってしまったのだ。さっきまで文句ばかり言っていたというのに全く人間なんて実にいい加減なものである。






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壊れちゃった女たち

筆者の周りには若いころタイに来て娼婦と深い仲になり、そのまま結婚してしまった人間が二人ほどいる。一人は筆者より3つ年上でさる企業のチェンマイ事務所に勤務するT氏で、彼は娼婦と言ってもその中で最も熾烈で悲惨な冷気茶室の女性をパートナーに選んだのだ。

周りのいかなる説得に対しても「俺は過去は問わないよ。あいつがそばに黙っていれるだけで幸せだからな」とT氏は反抗し続け、ついにご両親との関係さえも絶ってしまったのだが、筆者ら仲間はたとえ娼婦であろうとも一人の人間である!という彼の姿勢に凛とした気高さを感じていたのだ。だから今でも彼の結婚を茶化す気にはならない。

しかし筆者はT氏とはその後別件でちょっとしたイザコザがあって結婚式に呼ばれるどころか全くの疎遠になってしまったのだが、ちょうど筆者が会社を辞める4年前に偶然にもFacebookで彼の名を見つけ、退職記念のタイ旅行でチェンマイに寄った際に実に22年ぶりに再会したのである。

挨拶もそこそこに昔話に花が咲きはじめ、T氏は高校生の息子と娘のパパになっていて「上の息子が全く手を焼くやつでね・・」と世界中の父親同様に頭を掻きながら苦笑していたのだが、しばらく彼の話を聞いているうちに奥さんの話題がポッカリと抜け落ちていることに気がついた。





それで息子というのは何処の家庭でも同じですよ!でも娘さんが素直なのはお母さんがしっかり見てるからでしょう!母と娘ってのは仲が良いものですからね!と話をそっち方向に振り向けたところ、T氏はちょっと黙り込んだ後で「実は子供達が大きくなる前に離婚したんだよ」と言った。

事が事だけにあまり詳しく書けないのだが、結婚した当初は奥さんとは仲睦まじく生活していたのに、子供が生まれてチェンマイに大きめの家を買い、T氏の生計基盤も安定していくに連れ奥さんの奇矯な行動が目立つ様になり、また一体何に使っているのか不明な借金を方々でこさえるようになってしまったのだという。

何度言っても改善するどころか悪くなるばかりなので、ついにT氏は奥さんを病院に連れて行ったところ、医者はある精神病の病名を告げた後でポツリと「この人は壊れています」と言ったそうである。それからしばらくして奥さんは子供達も捨ててタイ南部の方へと出奔してしまい、弁護士を通じてついに数年前に離婚手続きを行ったというのだ。

さて実はT氏の話を聞いている間じゅう、つい数日前にバンコクで再会した大学時代の後輩Jくんが話していたこととあまりにも共通点が多いことに驚いていたのである。J君も学生時代にある一人のタイ人娼婦と深い仲になり、J君が卒業後わずか3年でバンコク駐在になったのを契機に正式に結婚したのだが、やはり子供が生まれて大きくなっていくに連れ奥さんの中で何かが壊れて行ったのだという。





家の中のものを壊すだけならともかく、突然何日も家から消える、クズみたいな男の影とバクチとクスリ・・、金やモノは十分足りているのに盗みや詐欺で警察の厄介になる、そして度重なる自傷行為が続き、やがてある日突然娘を置いて忽然と消えてしまったと言ったのだ。(なお娼婦にもいろんなタイプがいるが、この日記に書いた二人は自分の意思で娼婦になったのでは無く、十代半ばで親に身売りされた一番悲惨なケースであることを付け加えておく。)

苦海から脱出してやっと人並みな幸せを掴んだのにも関わらず、その幸せがだんだん大きく強固なっていくに連れ彼女らの中で何かが弾け、そして全てをぶち壊して消え去って行く。ある医者はたとえ精神病患者でも彼らの精神にはある一貫した論理性を見つけることが出来ると言っていたが、凡人の筆者にはいくら考えても答えは見つからない。

しかし小さい頃にダッハウかブッフェンヴァルトのナチ強制収容所に閉じ込められていたユダヤ人女性のその後を追った海外ドキュメンタリーの中で、死や虐待、裏切りなどを幼児期にあまりにも見過ぎてしまったために成人して家庭を持っても適応できず、ついに子供達から感情のない冷酷な人間と蔑まれて家庭崩壊してしまうルポを見た時に、これでは無いか・・と思った。

おそらく友人の妻たちも結婚当初は良き妻良き母になろうと思っていたのだろうが、幸せが現実に目の前に来た時にそれをどう解釈するか、あるいはどう受け入れていくか・・というソフトウエアが過酷な少女時代に歪められ壊されてしまったのだろう。人間は誰もが幸福になる権利も能力もある!と筆者は思ってきたが、友人たちの残酷な現実を思い返すたびに筆者はなんだかやりきれない思いになってしまう。






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メコン河に沈んだプン

筆者の旧友M君は3ヶ月ほど前にタイ北部を虱潰しに周り、メーホンソンやタートン、チェンセーンやパーイと言った僻地の写真をこれでもか!と言うほどFacebookにアップしていたのだが、彼の足跡をよく見ると彼にとってはいささか古い縁があるチェンコーンだけは訪れて居ないことに気がついた。

チェンコーンの目の前にはメコン川が悠々と流れていて、対岸はラオスという地の利を生かして国境を超えるバックパッカーも多く、ツウなら必ず訪問する町なのだが、T君の足跡を辿って見るとここチェンコーンだけポッカリと抜け落ちているのだ。

ここはプンの生まれ故郷かつ最後の場所だからな・・、心優しいM君の中ではまだ消化しきれて無いのかもしれない・・。それが筆者がとっさに思った印象なのだが、このことを説明するためにここで時計の針を四半世紀ほど前に戻したい。

数日前に書いた「エレベーター茶室のヨーニカ」という日記の通り、学生時代の筆者は休みの度にバンコクのヤワラートにあったジュライホテルに陣取っては冷気茶室という売春宿に沈殿していたのだが、M君はその時ルームシェアをした仲間の一人であり、彼も筆者ほどでは無いが冷気茶室に通った口である。

ただ筆者とM君が違うのは、筆者が抱いていたヨーニカ嬢は涙も枯れ果てて完全にすれっからしの女になっていて、筆者から金を巻き上げる為に嘘八百の涙ばなしを耳元で語っていたのに対し、M君の相方であるプンはそういった事が全く無いばかりか、皆さん嘘だと思うかもしれないがM君のことを愛していたのだ。





プンにとっては時々訪れるM君とほんの少しの時間を過ごすだけで十分であり、M君が休みを終えて日本に帰ってもバンコクの消印がついた手紙が毎週の様に送られてきて、中には「早く戻ってきて欲しい」「あなたに会いたい」と書き綴られていたのである。

監禁され一日十人もの客を取らされる彼女らにとって、客のうち一人くらいを本当の恋人だと思い込まなければ生きていけなかっただけなのかもしれないが、たとえ仮想現実であろうとも心優しいM君はプンの恋人役を引き受けたのである。この世の地獄に咲いた徒花の様な愛である。

しかし人間の憐憫の情には限界があるわけで、バンコクを再び訪れた時にM君はプンに対して「君が本当に欲しいものはなんだ?」と(大変失礼ながら軽率にも)聞いてしまい、その時のプンの表情を見た瞬間に自分がした事を後悔したのだそうだ。

結婚してほしい・・。プンの顔にそう書いてあったそうである。しかしプンはそれを言い出すことが出来ずにただ泣きそうな顔でM君を見ているだけで、その重苦しさに絶えられなくなったM君は適当な用事を言ってはその場を去ってしまった・・と言った。

さてM君とプンが破綻へと向かっている時に筆者は新潟県の工場で新入社員としてこき使われていて、タイで一緒だった仲間とはほんの時たましか会えなかったのだが、ある時新宿で久しぶりに別の友人と再会した際に、彼の口からプンが故郷のメコン川で薬を飲んで入水自殺した事を聞いたのである。





M君の精神的打撃はかなりのもので誰も声をかけられる様な状況では無くなってしまい、現実に筆者もM君と再会したのは5年ほど後に彼が香港に遊びに来た時になってしまったのだが、その時悪いと思ったもののM君にプンの話をきいたところ、彼はカバンの中から一枚の写真を取り出して「これが彼女です」と言った。

川の中を泳ぎながらじっとカメラを見つめる聡明そうな女、それが筆者が初めて見たM君の恋人プンの姿だった。もう何もかも嫌になっていてこの川に飛び込んだのか・・と可哀想に思ったが(同時になぜよりによって川の中の写真を持ち歩いているのか・・と奇妙に思えたのだが)、もちろんM君が責められる筋合いではない。ただあまりの救いの無さに筆者とM君はカクテルグラスを前にしばらく黙り混んでしまったことを覚えている。

さてあれから20年以上の時が経過した今でもM君とは時々会う関係を続けているが、筆者の女房はM君について「なぜあんなナイスガイが今でも独身でいるのかしら?どうせなら姪のイナを紹介しちゃおうか!」と言い張るので、いやいや、M君には昔プンという恋人がいて・・と起こった事をかいつまんで説明したところ「それは違うんじゃ無いか」と言い出した。

彼が過去を引きずっているのでは無く自殺した女がずっとそばに居て、他の女を寄せ付けないのだろう・・、というのだ。苦海に堕ちた自分をM君が受け入れられない事に気づいたプンはタイ人らしく来生で一緒になることを選択したのか?あるいは冷気茶室で言った通りずっと一緒に居たくて仄かなる水の底に身を沈めたのだ・・と言いたいらしい。

なるほど・・だから自分の生まれ故郷でありながら辛い思い出しか無く、自分の現生の終焉の地であるチェンコーンにだけはM君を連れて行きたく無かったのか・・と思ってしまった。もちろんこんなの筆者の勝手な思い込みかもしれないが、プンのあまりにも不遇な業を思うたびに「おそらくそうなのだろう・…」という思いを強くする。






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ハーレム浴室のガイルン

今から四半世紀前、新潟県の独身寮で無聊を囲っていた時に東京の実家から転送された大封筒の中身を開けると下手くそなアルファベットで宛名が書かれた小封筒が入っているのを見つけた。

何だろうと思って封を切るとそこにはタイ語で書かれた便箋とともに3枚の写真が入っていて、その写真には1年半前にバンコクで少しの間だけハマり込んでいた女が写っていた。

ガイルン・ルアンロー。チャイナタウンの入り口にあるハーレムという格安マッサージパーラーの女(日本で言うとソープ嬢)である。最初は客として通っていた筆者はなぜか彼女にえらく気に入られ、いつの間にか彼女の部屋に住み着くようになっていたのだ。

しかしガイルンがお客と泡まみれになってご奉仕している最中に家でじっと待っているのは実に複雑な心境であり、さらにこれが実に嬉しそうな表情で家に戻ってくのを見るのが耐えがたいため、台湾製テレビを買いたいけど少し援助してくれないか・・と言い出したのを契機に関係をぶった切ったのだ。

そのガイルンから手紙がきた・・。でもタイ語じゃ読めねえな・・と思って写真の方を見たところ、熱帯魚らしきカラフルな魚を背景にジッとこっちを見ているガイルンが写っているのだが、右上に「サンシャイン水族館」という日本語の文字があるのを見つけた。あいつ・・日本にいやがった・・。





それでタイ語が得意な友人にファックスで手紙を送ったところ、彼から「お前、こりゃ相当キテる内容だぞ。えらく惚れられたもんだな」という皮肉とともにガイルンが書いた内容を説明してくれたのだが、聞いてるうちにため息が出てきた。

茨城県の田舎町にある店でナオミという名で出ていること、あなたを今でも愛していること、自分は日本の勝手が分からぬし外出もままならぬから会いにきて欲しい、また元の関係に戻りたい・・という内容を何度も何度も繰り返していて、相当重苦しい代物だと言うのである。

こりゃ参ったな・・と思ったが、別れを切り出した日に大粒の涙を流していたガイルンの姿が不憫に思え、まあ会うくらいはいいか・・と手紙に書かれた電話番号にかけたところ、受話器の向こうから野太い声で「はい」という声がした。

ナオミと話をしたい・・と用件を伝えたが、相手の男は「お前はなんでこの番号を知ってるんだ」を繰り返すだけなのである。その口調はどう聞いてもその筋の人間のもので、こっちが何かを言わないと先に進みそうにないから「手紙をもらった」と答えたのだ。

すると「てがみだぁとぉぉぉ!」という怒鳴り声と共に「おい!ナオミってのはどいつだ!」とそばにいる誰かに喚き始めると「ガイルン」というか細い女の声が聞こえた。なんでたかが出稼ぎ娼婦の寮なのにこの男はこんなに警戒してるんだろう・・と筆者は煙に包まれた気分だった。





「おい!お前!手紙をこっちに送り返せ!それとお前の住所と名前を言え!今すぐだ!おい!聞いてんのか!おい!」と凄む男。これはどうも単なる不法滞在の売春シンジケートどころじゃないぞ・・何かもっと別の・・と危険を察知した筆者は直ぐにガチャンと電話を切ったのである。

それから半月後に再び下手なアルファベットで宛名が書かれた手紙が届いているので再び前述の友人に便箋の中身の翻訳を頼んだところ、そこには「この前はボスに殴られちゃったけど、でもあなたにどうしても逢いたいの。お願いだから会ってよ」と書かれてあったそうだ(上の空で聞いていた)。

ここまで愛されるというのは男冥利に尽きるとも言えるが、だけど・・このケースでは相手の条件が余りにも悪すぎて、と言うか世間並みのものが何一つ無いんじゃどうしようも無い・・。で、どうしたって?あーた、こんなの当然黙殺ですよ、黙殺。

結局ガイルンからはその後も3ヶ月間くらい何度も手紙が送り続けられたけど中身を見ることなく戸棚入りとなり、ようやくある時からプッツリと途絶えてしまい、筆者とガイルンの関係はこれで終わりとなったのである。メデタシメデタシ。

だけど今でもバンコクに来てヤワラートのハーレムの側を通り過ぎるたびに(現在はクレオパトラと名称変更)、夜食を右手に家に戻ってきたガイルンの嬉しそうな表情が思い出されて、少しだけ胸がチクンとしてしまう。もう25年も経っちまったけど、悪いことしたな・・ごめんよ。






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バンコク中央駅のゴザ女

筆者と同じくらいの年で若い頃バンコクの下町ヤワラートにあるジュライホテルや台北ホテル、あるいは楽宮旅社に滞在された方ならホアラムポーン駅前のソムタム酒場を訪れたことがあるはずだ。

今はずいぶん寂れてしまったが、80年代の終わり頃はインドやアフリカからバンコクに戻ってきた日本人ボヘミアンたちで賑っていた当時の通称「川っぷち」の事である。ここで飲まなくても夜ホアラムポーン駅から宿へ帰る道すがらずらりと並んだ彼女らを何度も見たはずだ。

まあ酒場と言っても路上にゴザを広げているだけで、供されるのもソムタムという青パパイヤの辛いサラダと、頼むとどこからか買ってくるガイヤーンという焼き鳥、あとは赤い色をした面妖な酒くらいなのだが、ここの売りはなんといってもゴザ酒場を広げている女たちである。

なお彼女らは売春婦でなく単に酒とつまみと会話を供するだけなのだが、辞書を引き引き純朴な田舎娘とタイ語で会話するのはなんとも心温まるものがあって、昼間は売春婦たちに「もう100バーツやるから口内発射させろ」と要求していた筆者もソムタム娘たちとは清くほのぼのした付き合いをしていたのだ。





彼女らは全員ともタイ東北部にあるロイエット県スワンナプーム郡から出稼ぎに来た小作人の娘たちで、彼らの生活を聞くとこれが貧乏どん底を見事に体現したものばかりであり、いつ親から女衒に売り飛ばれてもおかしくない陰惨な境遇でも健気に働く彼女たちの姿に筆者は心を打たれたのである。

それで彼女らの家計の足しになれば・・とホアラムポーンに行くたびにゴザに座って酩酊するまでタイ東北部名産の赤酒を飲み、料金もいつもお勘定の倍くらい払っていたのだが、あれから25年も経てば娘たちは故郷に帰ってお母さんになってしまい、もう会うことは無くなってしまった。

そんな中で一人だけ当時の生き残りとして今でもゴザ酒場を開いているのがジャンで、10年前に何気なくホアランポーンに寄った際に奇跡の再会してからというもの、筆者はバンコクに遊びに来る度に彼女のもとを訪れることにしているのだ。

ジャンは若いころ一旦ロイエットに帰って結婚したものの離婚してしまい、引き取った一人娘を大学に行かせるためホアランポーンに戻って爪に火をともすように働いており、そんな彼女の健気な姿を見るにつけ(筆者は健気に弱い)筆者は例え一杯のソムタムであろうとも毎回千バーツお支払いしていたのである。





ところが先日ジャンのフェイスブックを見たところアレッ?と思う写真が目に入った。それはジャンと娘が立っているのだが、後ろに新車らしきトヨタ・イノーバがデンと置かれているのだ。場所はどうもカーディーラーっぽいから、これ・・どう考えてもジャンが車を買った記念写真である。

いや、前から大きなカゴをトゥクトゥクに持ち込んでここまで来るのが大変なんだ!と言ってたからジャンが車くらい買ったって別におかしくは無いのだが、筆者の中ではゴザ酒場の女たちは「明日売られるかもしれない貧乏で可哀想な人達」というイメージがずっとあったのである(脳内イメージ動画には物悲しいオカリナ風メロディーがBGMで流れている)。

それが中古ならともかくトヨタの新車を買っていた・・、しかもこの車よく見るとオレがフィリピンで乗ってるイノーバよりも上位機種じゃねえか・・という事実に直面して、なんだか噛み砕けないというか裏切られたような思いがして仕方が無いのだ。

さて一昨日バンコクに来た証の写真をフェイスブックにアップしたところ早速ジャンから「待ってたわよ。いつ来るの?」とメッセージが入ったが、筆者はずっと返事をしないままでいる。どうだろう、当分行かないかもしれないな・・。






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エレベーター茶室のヨーニカ

筆者が学生時代最後の休みをバンコクで過ごしていた時に毎日お世話になったのが、タイ式火鍋で有名な店の名をとったソイ・テキサスにある通称エレベーター茶室で働いていた売春婦ナンバー18号、本名ヨーニカ・クワンカムという19歳の女ある。

いや働いていたという言葉ではヨーニカの境遇を表すのは不十分で、正確に言うとわずかな金で親に売られ、一発75バーツ(当時の金で300円)というタコ部屋売春宿に監禁されて1日最低10人、時には泊りコースも入れて不眠不休で客を取らされていたこの世の生き地獄の住人である。

1980年代のバンコクにはヨーニカのような身の上の女が10万人くらいいて、文字通り身をすり減らすまで(或いは過労や性病、さらに自らの手で生命を絶つまで)酷使されていたのである。え?なんで取り締まらなかったのって?。そりゃタイでは売春自体は一応非合法でも冷気茶室のオーナーは警官が多かったからね。

ヨーニカは故郷チェンライの奥地で小作人の子として生まれたけれども、母親の新しい旦那の酒代のために女衒に売りとばされたのだ・・と説明するのだが、ところでお前の本当の父親は何やってんだ?と聞いたところ筆者が会話用にいつも持ち歩いていたタイ日辞典を開いてある単語を指差したのだ。



死刑・・。なんと親父は殺人を犯して死刑になったのだと筆者を睨みながら言う。その凄みのある表情に妙なリアリズムを感じた筆者は何となくヨーニカに憐憫の情を抱いてしまい、筆者自身が大変ヒマだったこともあって(別の女にはまり込んでいた一時期を除くと)毎日昼12時の開店と同時に店に飛び込んで5時間コースなど頼んでは目の下にクマを作ったヨーニカを眠らせたりしていたのだ。

さてそんな7週間の休みも終わりに近づいたある日「お前が自由になるためには幾らかかるんだ?」とヨーニカに聞いたところ4千バーツ(当時の金で1万6千円)だと言う。なんか思ったよりも安いな・・と思ったが、一発75バーツのうち取り分が15バーツ(60円)しか貰えない身だから(そこから食費もろもろを引かれる)4千バーツはヨーニカにとっては大金である。

それで最後の日に4千バーツの現金と彼女がいつも欲しそうに見ていたウォークマンを差し出したら、「ありがとう!これで自由になれるわ!」と泣きそうな表情をしながら言い、そして最後に「あんたは客じゃ無い!あたしにとってはずっと恋人だったわ!」と言って踵を返すと彼女の檻へと帰って行ったのだ。

さてそれから4ヶ月経った会社員最初の夏休みに再びバンコクを訪れた際に、若さゆえ下の方が催してしまった筆者はエレベーター茶室を訪れたのだが、女たちがずらりと並んだガラス窓の向こうをよく見ると・・ヨーニカがいるじゃねえか・・。お前チェンライで尼になるんじゃなかったのかよ・・。



ところが小部屋に現れたヨーニカは全然悪びれた様子もなく「一旦チェンライに帰ったのよ!」とか言い訳するのだが、話の時系列が滅茶苦茶なのと死刑になってあの世にいるはずの本当の父親がなぜかこの世に復活していて、アタシはまたあの親父に売られたのだ!などと言い出す。

呆れた筆者は一個一個理詰めに反論していったところ、ついに小さい子がイヤイヤするみたいに仰向けになって「だってチェンライの田舎に帰ったら化粧品とか綺麗な服なんか買えないじゃないの!」と叫びながら足をバタバタさせた。この女・・ついに本性を現しやがった。

こいつはダメだ・・。涙も枯れ果てて性根まで完全にすれっからしになっていやがったんだ・・と気付いた筆者は一応75バーツの料金分の事を済ませるとヨーニカのもとから立ち去ろうとしたが、その瞬間ヨーニカは筆者の足をグッと掴んで「ねえ!聴いて!」と声を絞り出した。

あたしぃ!自由になりたいのぉ!もう一度4千バーツちょおだあいぃぃ!ともの凄い迫真の表情で言うが、なぜか片方の手は筆者が帰国後日本で新しく買ったウォークマンを握りしめている・・。でも当然ながら筆者はヨーニカの手を払いのけ、ウォークマンももぎ取ってさっさと冷気茶室を後にした。それ以来筆者は女の涙の告白は一切無視するようにしている。





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旅のお荷物、旅の友

タイ旅行5日前に突然謎の筋肉裂傷を起こした女房は「この際フィリピンに留まって静養したほうが良い」という筆者の親切なすすめも聞かずに宅配医療セラピストにヒロットというフィリピン式アユルヴェーダ、それとベントーサという吸引療法などの背術を受けて何とか外出出来るくらいにはなった。

しかし「外出できる」と「旅が出来る」 の間には幾つか断層があるもので、さっそく飛行機に乗るなり「あなた!肩が痛い!何とかして!」などと喚き出し、その度にキャビンアテンダントのお姉さんに幹部を冷やすための氷を貰いに行ったり、「横になりたいからアンタはどっかに行ってろ!」と言われ、満席の機内で所在なげに佇んでいたりしたのである。

それでもまあ何とかイミグレを終えてバンコク市内にたどり着き、現在懐かしのチャイナタウンのホテルに滞在しているのだけれど、昨晩フカヒレを食いに行った以外は女房は部屋に閉じこもったままになってしまい、筆者は氷や薬を買いにやらされる以外は女房の傍で面倒を見させられているのである。

ふと窓の外を見ればそこに入ってチャイナタウンの喧騒となんとも言えぬイヤらしさを発散する数々の店が目に入る。ああ・・このお荷物さえ付いて来なければこの紫色の風に思い切り奔流され他はずなのに・・と妄想を膨らませていると「アナタ!氷が溶けたから新しいの買ってきて!」という声が背後からした。ハイハイ・・仰せの通りに。






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