死ぬ前に挨拶に来た律儀な元同僚

10年以上前に3年間だけ所属した事が有る日本の事業部に戻っている夢を見た。建物の中を歩いて行くと数人の人間がフロアに座っていて、一人だけ見た顔がいる。明石清隆という名の筆者より一つ年上の調達課の課長さんである。明石課長は「やあ久しぶり」と言い、筆者も何やら挨拶をした後二人であれこれ話し込んでいる夢であった。先週末にこれが二晩続いた。

さて夢から覚めて思ったことは「何でさして親しくもない明石課長の夢を二晩も続けて見たんだろう」と言うことである。筆者は香港にずっといたため彼とは一緒に仕事をしたことも飲みに行ったことも無いし、勿論彼の夢などかつて一度も見た事など無いのだ。元同僚たちがこの日記を読めば、なぜ筆者が明石課長のことを書いているのか訝るに違いない、それほど浅い関係なのだ。筆者が明石課長についてただ一つ記憶に残っている事は、昨年筆者が会社を辞めた時に彼が何故かFacebookで筆者を探し出し「突然辞めたので驚いたよ・・」で始まる別れのメッセージを送って来たことである。

ところが昨日、親しかった同僚から明石課長がガンで死んだと聞いて驚いてしまった。確かに数年前に胃ガンの手術をしたとは聞いていたが、一昨年香港に出張に来た時は「大分具合が良くなったよ」と言っていたのに・・。そして二晩に渡って彼の夢を見た理由が分かった。気配りの人である明石課長は昏睡状態の中でも仕事仲間や友人を思い出して別れの挨拶を告げていて、彼にとっては脇役中の脇役の更に脇役である筆者の事もチョコっとだけ思い出して挨拶をしに来たに違いない。明石課長らしい逝き方だなと思った。

さて早速彼のFacebookアカウントに挨拶に来たでしょ?という話とお悔やみの言葉を送ったら(死んだ人間に送ったのである)、なんと直ぐに開封され、それから数時間後に返事が来た。まさか霊界と繋がってるんじゃ・・?とおっかなびっくりケータイを見ると「貴方のメッセージを父に伝えて聞かせましたよ」という一文とともに筆者へのお礼で締めくくられているお子さんからの丁寧な返事だった。

さすが明石課長の子供である。悲しみにくれている最中にもかかわらず親譲りの気配りの性格から直ぐに返事を書かねば気が済まなかったのであろう。なるほど・・親は死んでも子に残すものがあるって事か・・。明石課長、たまに残された家族へ気配りしに戻ってあげなきゃ駄目だよ!



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老若男女全員参加するフィリピンの同窓会

年に一度の家族宴会が終わり、土曜日の真昼間に女房の実家でゴロゴロしていると、義弟や従兄弟が「レジストレーションに行ってくる」と言ってそそくさと出て行くのを何度も目撃した。はてな?近々選挙でも有るのかな・・と思っていると、ちょうど女房もレジストレーションに行くと言うので「何の登録に行くの?」と聞くと中学校の同窓会だと言う。

同窓会で登録?そんなの会場に直接行けばいいじゃないか・・と思ったが、その後の話を聞いてよく分かった。なんと全ての卒業年度の同窓会が同じ日にやるため人数がべらぼうに多いのである。それで土曜日に登録した後は組織委員たちが卒業年度別にグループ分けを行い、翌日の本番では81年卒業組は2階奥の教室、60年より前の組は人が少ないからまとめ1階中央の教室、90年組以降は全部午前中と言う風に割り振るのだそうだ

卒業生たちは外国に出稼ぎに出たり、他所の土地に嫁いだりしてるので、皆が集まれるホーリーウィークに一編にやる習慣だと言う(ちなみにこの村には学校が一つしか無いため、一家の婆ちゃんから孫まで同じ日に同じ場所の同窓会に参加するのだ)。それに皆この集まりを毎年楽しみにしているので遠方から参加する人も多く、どうしても出れない人達は友人に映像やメッセージ託したりするらしい。いやはや・・もの凄い結束力である。

「それでね!同窓会の後はね!みんなで同じTシャツを着て、車で市内を走り回るのよ!そしてその後は卒業年度ごとのパーティーをやるの!」と女房は嬉しそうに言ったあと、申し訳なさそうな表情をして「XLサイズのTシャツが無かったから窮屈だろうけどLサイズでガマンして」と言った。ちょっと待て・・俺も車に乗って選挙の宣伝活動員みたいに市内を走り回らなければならんのか!



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どんな困難をも克服できる魔法の杖を持っていた男

恥ずかしながらつい先ほど佐村河内守の事件について初めて内容を知った。筆者は退職してからは日本のテレビや新聞・雑誌は一切見ていないので日本の事情からはまるっきり疎くなっていて、ネットでこの人物の名前をたまに見かけた時にも「さむら・かわちのかみ」という名の時代劇のヒット作品でも有るのかなと思っていたのである。なので今頃こんな日記書いてアホか!とお思いだろうが、本日一番驚いた話なので旬を外れた日記をお許しいただきたい。

経歴詐称にゴーストライター、果ては聴覚障害の偽装など、この男のロクでもない虚飾の人生に呆れると共に「このオッさんようやるわ!」と筆者は笑ってしまったが、その反面で頭の中に浮かんだ疑問符、なぜこの男はこんなにトントン拍子に音楽家として成功していったのか?が膨らんでいった。無名時代にいきなり映画音楽の作曲を依頼され、米紙TIMEでの特集、G8での演奏会、NHKスペシャルで取り上げられる、数々の音楽賞の授賞など、この男のクラシック参入後の躍進は驚異的である。

東京芸大をトップで出てパリやウィーンに留学した本物の天才作曲家でもココまで短期間で成功する事は稀なのではないか。確かに被曝二世に聴力障害などハンディを巧く宣伝すれば(半分嘘だが)現代のベートーベンとして注目を集め易い点はあるが、音楽を志す人達の中にはもっと酷い逆境の人は沢山いるし、だいいち見てくれも経歴もパッとしないこの男をメディアが無理矢理スターに仕立てようとしたとも思えない。

いったい何でだろう・・と思って佐村河内守の属していた事務所をネットで調べて見たら呆気なく答えが出てきた。株式会社サモン・プロモーション、筆頭株主 : 池田D作。ああ・・なるほど・・・そういうことだったのね・・。

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韓国へと旅立つ夫の身を案じる妻

昨日一族の宴会の後にホテルのバーでウィスキーを飲んでいると、従姉妹ミレットの旦那ラフィーが韓国・ソウルでどこか皆で楽しめる所を知らないか?と聞いてきた。なんでも来月10日から社員旅行で韓国に行くのだが、ラフィーの属する総務経理部のメンバーは全員幹事役を仰せつかってしまったのだという。参加者は何と300人もいて、遠くへは出かけられないので宿泊先の明洞に近い所で遊び場を教えて欲しいと言うのである。

筆者は仕事でソウルには良く行ってたし、定宿も明洞近くのロッテホテルだったからラフィーの相談に乗ることにしたが、ちょっとイタズラをすることにした。と言うのはこのラフィーは昨年に人生で唯一度だけクバオのバーで女を買ったのが女房ミレットにバレて袋叩きの目に会い、もう二度と浮気はいたしませんと一族の女たちの前で誓わされたからである。だけどこういう人生はツマラナイ!ラフィーは殻を破る必要がある!と筆者はその時思ったのだ。

「まず韓国の名物だけどね」で始まった筆者の一言一言をラフィーはフムフムと真面目な顔で聞いている。「なんと言っても韓国女性の○○○は小さくて締まりが抜群に良い事だよ」と言うやラフィーは唖然とした表情を浮かべた。側にいたミレットもアンタ何言ってるんだ!という表情でこっちを見る。しかし筆者は素知らぬ顔で明洞の夜の名所案内を滔々と説明し続ける事にした。

ルームサロンはハングルが出来ないと全然面白く無いから止めた方がいい。行くならアンマと床屋だね。アンマシソルソと言ってサービスは・・と出来るだけ詳しく説明すると、ラフィーは「どうやってその店を発見できるのか?」という点が気になっている様である。義妹が調子に乗って「ブラザー!確実にその店ならヤレるという分かり易いサインをラフィーに教えないとダメじゃ無い!」と囃し立てると、ミレットの表情が益々険しくなってきた。それを「これはラフィーの仕事だからブラザーにもっと詳しく話して貰うべきだ」と面白がる義弟。

しかし温泉マークはアンマシソルソ以外に単なる安旅館の場合もあるし、150人の男たち全員が簡単に覚えられて簡単に見つけられるサインと言われても・・と頭を悩ませていると突然ある光景が脳裏に閃いた!「ラフィー!床屋の入り口でクルクル回ってるサインポール分かるか?」と聞くと「分かるよ」と答えた。「いいか!普通の床屋はサインポールが一本だけだけど、そっち方面の床屋は最低二本以上有るんだよ」と言うとラフィーがオオッと目を剥いて「ブラザー!それだよ!それなら誰も間違えっこ無い!貴重な情報をありがとう」とエラく筆者に感謝していたのだな。

その後テーブルの会話は義父の愛人話に移ったが、ミレットは明らかにオカンムリの様子で、それをラフィーが「これは幹事役の仕事なんだ」とずっとなだめているのが見えた。まあこの男はクソ真面目だから本当に情報として聞いてきたんだろうなと思っていたが、夜の1時にバーでの飲み会がお開きになり、帰り道でミレットが義妹と話している隙にラフィーは筆者の側に擦り寄り「本当に韓国女性の○○○は締まりが絶品なのか?」と聞いてきた。心なしかラフィーの顔の筋肉が緩んでいる様に見える。良し!そう来なくっちゃ!それで後ほどソウルの詳しい情報をメールで送ると言うと、ラフィーは嬉しそうな笑みを浮かべてミレットの待つ部屋へと戻って行った。



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義父の老いらくの恋

昨日女房の父方の親戚40名とタナイ市にあるBAKASHUNANいうリゾートへ一泊して来た。毎年恒例の夏のイベントである。ここはプールやバスケットボールコートにフィールドアスレチック等が有るのでガキどもを勝手に遊ばせておくには便利な場所である。部屋はコテージがズラッと並んでいて一泊2500ペソと値段もお得である。

1時30分にチェックインした後、筆者は部屋で本を読んでいると、後から来た女房が「お父さんがもう一部屋自分用の部屋を用意してくれと言い出したのよ」と幾分むくれている。はて・・相部屋が嫌と言うことか?相手は義弟になのに・・と謙虚な義父にしては珍しい事だな・・と思っていると、女房が「どうも愛人がいる様なの・・その女からせがまれてるみたいなの」と言った。

義父に愛人・・?意外な話に驚いてしまった。30年前に妻と死に別れ、その後しばらくして家政婦とネンゴロの関係になるが決して再婚はしなかった義父。この家政婦とも一昨年に別れてしまったあとは時たま近所にある大学の貧乏女子学生を500ペソで買うくらいが関の山だったのに・・。だいいち義父は今年69歳なのだ。それが愛人だって・・。

食事会の後で義父と中年グループはテラスBARに移動し、そこで筆者がさりげなく女性関係の事を切り出すと、「いやっ!実は最近オンナが出来たんだよ!」と嬉しそうに言い出した。全員がシーンッと沈黙して義父の話に耳をそば立てる。その女は人妻ですか?と聞くと「一度離婚したシングルでね」と言った後、「今24歳の大学生なんだ」と照れた顔で言う。ぬわにぃ〜!24歳だと!アンタの孫と対して変わらんじゃ無いかっ!

一体何処で出会ったのか?と聞くと、ケータイに間違いメッセージが入って来て、外で会ったらいつの間にか意気投合して、3回目のデートで深い仲になったのだと言う。これって単に押しかけ買春じゃ無いか?と思ったが、嬉しそうにしている義父の手前口をつぐむことにした。「今じゃ毎週の様にデートしてるんだよ!お前(筆者の事)から貰った朝鮮人参茶のおかげだ!」と会心の笑みを浮かべて笑う義父。この時義父に皆の沈黙(なかんずく娘二人)の意味を理解する賢明さが有れば、後に起こる重大な事態は避けられただろう。

夜12時にすっかり酔っ払って居室に戻る義父。義父の姿が階下に消えた後、今まで沈黙を守っていた女房と義弟、義妹が堰を切ったように話し始めた(タガログ語なので聞き取り不能)。欠席裁判である。どうも弁護側に回ったらしい従兄弟たちの意見を退ける女房と義妹。結局こうした激しいやりとりが30分続き、一同の中である結論に達した様である。

判決 : 小遣いの20%カットと義弟および二人の孫による義父の行動監視強化。この恋はぶち壊すことに決定。


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家政婦のサイドビジネス

先週タイ・ベトナム1か月半の旅から戻って来ると、我が家の家政婦ラセルの息子が家に来て、大学生の姪に何やら勉強らしき事をレクチャーされているところであった。このラセルの息子は去年高校を卒業した後マニラに職探しに来たのだが、学歴も資格も無い悲しさか何処もマトモな職が見つからず、同じサブディビジョンに住む叔父の元で大工の手伝いみたいな事をしているのだ。それが一体どうして勉強などしているんだろう?

「あの息子は大学に行く勉強をしているのよ」という義妹の言葉に驚いた。何故ならラセルの家計は赤貧洗うが如しであり、女房が払う月3000ペソとド田舎アブラの小作人の夫の微々たる収入しか無いのに、子供だけは多い(他に3人いる)からだ。長男は今や幼い弟と妹を養う貴重な労働力であって、大学など行かせられる訳無いのだ。

ところが答えは直ぐに判明した。ラセルと女房が電卓を手に何やら話し込み、紙の上で数字を並べて計算している。会話の端々にペソとかパーセントという単語が聞こえる。そうか!分かったぞ!ラセルは女房のサイドビジネスである高利貸しのエージェントになったのだ!それで女房は旅行中にしょっちゅうSkypeで(コソコソとだが)話していたんだ!

翌日義妹が説明した話によると、ラセルは筆者の住むサブディビジョンの隣にある工場の労働者達に随分と通じていて(同郷の人間が多いようだ)、この連中に月利20%(フィリピンではファイブ・シックスと呼ばれている)で貸し付けを始めていたのである。取り分は女房が10%、ラセルが5%、工場内の代理人たちに5%だと言う。「ラセルは先月17000ペソ稼いだのよ!それで息子を大学に行かせようと決心したのよ!」

予想外の成功にニンマリしているラセル。収入を増やすために新規顧客の獲得に余念が無く、近所の家政婦たちとのお喋りはすっかり止めて工場に如何にもプラリと寄った振りをして知り合いの懐具合を物色している様だ。おい・・ラセル・・。貧乏人のお前には「俺が金主だ!」といって取り分を寄越せとは言わないが、先週パンパンガで着ていた服が洗濯されずに未だにカゴの中に置かれたままなのは一体どう言うことだ!一応家政婦としての給料も払ってるんだから、掃除と洗濯くらいはしてね・・・。



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詐欺師に転落した女教師(3)

幸運な事に被害者の会の人達は女房が詐欺とは無関係で有る事を納得してくれたようで(警察官である従兄弟たちが奔走してくれた)、女房ではなくジュディーを詐欺で告訴した。被害総額は300万円くらいだったと思う。しかしジュディーはどっかにトンズラしたままだし、結局はジュディーの実母が代わりに賠償に応じることになりそうな気が・・。となると女房が100万円の借金を全額回収するのは難しくなってしまう・・。どうしたもんかと頭を悩ます女房に、ある日義父から電話がかかってきて「ジュディーの母親が町外れの農地を売りに出したぞ」と言ってきた。この金で借金を返すつもりらしいという。

で売値は・・と聞くと、売り急いでるから相場の2割安い160万円だという。手持ち現金資産ゼロで負債が女房の100万円と詐欺被害者の300万円、香港のメイド紹介所の損害賠償は踏み倒したに違い無いがジュディーのことだから他にも200万くらい騙していそうだ。一方固定資産はボロ屋と160万円の農地と・・。はい!債務超過確定!。なので一番確実な債権回収方法として、貸し付けた100万円と追加60万円の現金を渡して農地を買い取ることにした。今現在もこの農地は女房名義で残っているが、誰も農業をやらないので放ったらかしにしてある。毎年税金だけ払って馬鹿らしいが価値だけは上がっているようだ。

その後ジュディーは警察に捕まったが、どういう訳かしばらくして保釈され、再び詐欺に手を染めてはトンズラし、ほとぼりが冷めるとまた舞い戻って詐欺を働くといった繰り返しだったが、4年前の真冬に突然香港に現れ(どうやって出国したんだろう?)、信じられない事に女房に「今あんたの家の下にいるから1週間泊めてくれ」と電話で申し出てくる一幕があった。当然女房に門前払いされるが「寒いから家に入れてくれ」と言うジュディー。どうも自分が何で断られるのか理解出来ていないようである事を知り、この女ここまでいってしまったのか・・と唖然としてしまった。

さてフィリピンで再び詐欺を働き警察に訴えられてベトナムに逃げて来たジュディだが、真面目に努めているとは思えないからフィリピン人相手のインチキ人材センターや英会話のマルチ商法、もしくは旅行者相手の寸借詐欺でもやっているのでは無いだろうか。しかし一体どうしてあの真面目を絵に描いたような女教師がこんな短時間で一気に詐欺師に転落してしまったのか・・。その答えは彼女を最初に見た日に彼女の瞳の中に見えた「私は違うのよ」という小さな炎の中にあると思う。

おそらくジュディーは女教師からハウスメイドになった時に失われた他人を支配し尊敬を集める快感を、一瞬でも良いから取り戻したかったのだろう。そして詐欺が慢性化するにつれ、愚かな被害者を見下げて愚弄する優越感に浸りきってしまったに違いない。詐欺は快楽殺人と同じく終わりが無いとは正にこの事である。ジュディーの快楽への欲求はいつか破裂する日が来ることも知らず風船のように膨らんでいっていったのだ。

しかしジュディーよ。お前さんはもう一つ大きな間違いを犯していることに気がついてないらしい。お前が今いるベトナムの人間というのは、うちの女房なんか比べ物にならないくらいしたたかで残酷な民族なんだよ。今度捕まった時は、警官に怒鳴られて無理矢理サインさせられるくらいじゃ済まないぞ。切り刻まれてサイゴン河口でシャコの餌になる前に、改心して手相占い師にでも商売変えしたらどうだ。
(完)



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詐欺師に転落した女教師(2)

数か月後に女房がフィリピンに一時帰国し、父親と弟と従兄弟をボディーガードにしてジュディーの家(とんでも無いボロ屋らしい)に取り立てに行くと、噂で聞いたとおりジュディーは新しい男を作っていて(夫は追い出された)、女房の取り立て要求にもケロリとした顔で「払えないわ」と言ったという。その余りの厚かましさに幼少期からジュディーを知る義父と義弟も唖然としたらしいが、そんな事で筆者の女房が諦める訳も無く、次の手を使っての借金取り立て策に移ることになった。

警察署に移送され、警察官である女房の従兄弟たちに脅されて言うがままにフィリピン国内版の借用書にサインさせられるジュディーと実母。女房への借金は香港での事(しかも過去)だし、誰が聞いても警察の管轄外、つまり違法行為であるが、フィリピンの田舎町じゃ法律よりも一族の繋がりこそがルールなのである。だいいち手持ちの現金も貯金もゼロに近い状態じゃ、債権者から殺されても仕方が無いフィリピンのこと。借用書の書き換えとボロ屋の担保設定くらいで何でも無い事なのだ。

一仕事終えて香港に戻ってきた女房は幾分肩の荷が下りたような表情をしていたが、それもたった一ヶ月で元の険しい顔つきに戻ってしまった。借金分割払いの最初の1回目が支払われ無かったからだ。そこで義父をジュディーの家に差し向けると、ジュディーの実母が驚いた表情で「そんな事は無い!私が親戚から借金して、お借りした金額の半分に相当する額をジュディーに手渡したのに!」と言ってそもまま泣き崩れてしまったと言う。しかもジュディーは新しい男と我が子を置いて何処かへ行ってしまったというのだ。

しかし問題はそれだけでは無かった。ある日香港の家に電話がかかって来て、女性の声で「シエナさんと話がしたい」という。誰かと聞くと「私はあなたの顧客の代表者です」と妙なことを言うが、相手の言う通り女房に受話器を渡した。受話器を耳に「アノアノアノ?(何なにナニ?)」と何度も相手に聞き返した後で叫び声を上げる女房。そして受話器を手荒に放り投げるや「ジュディーがアタシの名前を使って詐欺を働いてる!」と叫んだ。

なんとジュディーは香港の人材センターのエージェントを名乗って渡港を希望する数十人ものフィリピン女性たちから前払金をかき集めると何処かへドロンしてしまい、慌てふためいた被害者達が連絡を取り合って被害者の会を作り、ジュディー手製のパンフレットにある香港本社(なんと筆者の家になっていた)に電話して来たと言うのである。こっ!このっ腐れ女!ついに自分を騙したモンコックの悪徳エージェントと同じ事を始めやがるとはっ!
(続く)


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詐欺師に転落した女教師(1)

ホーチミンに滞在していた時に、女房が「ジュディーはこの国にいるんだって」と意表を突く事を言い出した。ジュディー・・ひょっとして俺たちが土地を取り上げたお前の元友人か?と聞くと「そうだ」という。クラスメイトにベトナムに旅行に行くと言ったらジュディーの消息を聞いたのだそうだ。あの女ここに逃げてたのか・・と驚くとともに、彼女の変貌ぶりが頭の中に蘇ってきて思わず苦笑いしてしまった。

このジュディーというのは女房の小中学校時代のクラスメイトで、女房と違って品行方正かつ成績優秀な事から州の奨学金を得てマニラの教員養成大学に進み、10年前まではリサール州の公立中学校の教師を務めていたお堅い女である。しかし余りの安月給のため生活して行けず、心機一転して香港にハウスメイドとして出稼ぎに来ることとなり、香港には友人がいないので毎週休みの日は我が家に遊びに来ていたのである。筆者が最初にジュディーに会った時の印象はとにかく地味で真面目一方。しかし自分はインテリである、私は違うのよ!というプライドの高さがその表情に垣間見えていた。

しかし子供達を私立の学校に入れるためには香港の月給4万円の給料では十分で無いため、2年も経つとジュディーはカナダに移動する事を決心、周囲が止めるのも聞かず香港のモンコックにある如何わしいエージェントにカナダへの労働ビザ手続きを依頼した。「カナダなら今の倍以上稼げるのよ」と嬉しそうに笑うジュディー。しかしビザ申請費用は結構な額のはず・・一体何処から捻出したのか?と聞くと、「教師時代に溜め込んだお金が一杯あるの」と自信ありげに答えた。

ところがそれから1年経ってもいっかなビザが降りる気配が無い。心なしかジュディーの表情は会う度に暗いだけでなく目つきもおかしくなっていき、ある日を境に筆者の家に全く来なくなってしまった。それで女房にどうしたのか?と聞くと、「ジュディーは詐欺にあったのよ。それでフィリピン人の弁護士に相談してたんだけど、相手から領収書を貰って無かったからお手上げだって・・」と意外な話が・・。いやいや何て可哀想な・・と思ったが、その後さらに驚くような事を女房が言い出した。

「実はジュディーのビザ申請費用を立て替えたのはアタシとルーシー叔母さんなの・・。ジュディーは文無しだったから貸したんだだけど、それが今になって借金は返せないから諦めてくれって言い出して。それで言い争いになったらジュディーは仕事もほっぽり出して突然フィリピンに帰っちゃったのよ・・」と憮然とした表情で隠し事を話し出す女房。はあ・・なんだと・・お前が金主だったって?。

女房の話だとジュディーから絶対に筆者に言わないでくれと頼まれたので今まで黙っていたのだと言う。貸した金額は当時のレートで100万円相当、それに香港のメイド紹介所から雇い主に事前通告する事なく突然消えたという契約違反で数十万円相当を訴えられているという。あの教養豊かで真面目なジュディーが借金踏み倒し・・それにメイドの仕事も途中棄権・・と意外な事態に驚いたが、こんなものその後のジュディーの変貌ぶりに比べればまだ序の口であった。
(続く)


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謎の伝染病MERSの地へと帰っていく義弟

致死率の高い感染症MERSは2012年に最初の感染者が現れてから主にカタールなどペルシャ湾岸諸国で広がりを見せていたが、ここに来てサウジアラビアに飛び火し、現在感染者244人、死者79人にまで拡大、特に同国西部にある商都ジェッダではこの1週間で新たに49人が発症するという緊急事態になりつつあるというニュースが流れた。このニュースを聞いて筆者の一家は非常に神経質になってしまうのだ。何故なら義妹の夫であるフランシスが10日後に年に一度の休暇を終えて正にそのジェッダへと帰るからである。

このフランシスはジェッダに本拠を置く大手建築会社のプロジェクトマネージャーを長年に渡り務めており(高給取りである)、今年3月半ばに1ヶ月半の休暇を取ってフィリピンに帰国し現在筆者の家に滞在している。義妹との間には1歳半の娘がいて、可愛くて仕方が無いのだろう、毎日あちこちに連れ出しているのだが、それもあと10日でお終い、灼熱の気候と山ほどの仕事が待っているジェッダに戻らなければならない。しかも今回は 致死率30%を超えるコロナウィルス付きである。

フィリピン厚生省はサウジアラビアとアラブ首長国連邦で働く出稼ぎ労働者むけにMERSウィルスから身を守る効果的な情報を公表した・・と言うニュースをネットで発見したので、一体どんな秘策なのかと筆者と女房は記事を目で追ってみたが、手を洗いましょう、うがいをしましょう、咳をしている人がいたら逃げましょう、という小学生でも考えつく様な策ばかり・・思わず呆れてしまう。

まあ防疫の基本ってこんなもんだろうけど、でもはっきり言おう!こんなのは全部気休めである。今から11年前に香港を恐怖のドン底に陥れたSARS騒動の時は香港の全市民700万人全員が朝から晩までマスクをして、一日何十回も消毒液で手を洗っていたが、ウィルスの拡散と感染者の急増(パンデミック)の前にはこんな小手先などまるで通じなかった。

対症ワクチンが無い状態でパンデミックを抑制する唯一の方法は強制隔離である。当時香港では感染者は言うまでもなく感染者の同居人まで潜伏期間中は隔離されたし、発症者の住む住宅の住人(下手すると1患者当たり1000人超える場合もある)は出勤停止命令が下った。筆者の会社でもポツリまたポツリと空席が増えて行き、忍び寄ってるウィルスへの恐怖心と戦うだけで押し潰されそうだった覚えがある。ウィルスの猛威の前では人間が出来る事など限られているのだ。しかし香港内の人の流れが急激に減ったために新規感染者も徐々に減り始め、1ヶ月半もするとあれ程猛威を奮ったSARSも影を潜めてしまった。

さてフランシスにはジェッダへの帰国を延長したらどうか?と何度も話してみた 。MERSの死者は腎臓や肝臓の持病を抱えているケースが多いが、フランシスも昨年胆石の手術をしてから体調の方が芳しくないのだ。しかし奴は「ブラザー。俺はマネージャーだから部下達を置いて逃げるわけには行かないよ」と今の日本の企業幹部に聞かせたいセリフの後、「それに女房と娘を食わせて行く責任があるから、ウィルスくらいで今の仕事を捨てるわけには行かないんだ」ときっぱりと言った。お前が正義漢だってことはわかるけど、パンデミックが猛威を振るうまでフィリピンで様子見した方がよっぽど義妹と姪っ子を喜ばせると思うが・・。しょうがない・・ジェッダに戻る前にフィリピンで無理矢理どっかに監禁して、感染前隔離すっか!

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年一回のファミリー・リユニオン

年に1回の一族が大集合すると言うことで父祖伝来の地であるパンパンガ州サンタアナにやって来た。ファミリーの会合なんて毎月の様にやってるのになんでわざわざ遠出するんだ・・と思ったが、このリユニオンと言うのは祖父の兄妹の代まで遡って血族全員が集まる共産党の党大会のようなものであり、党中央委員会に相当する50〜70代の数十人の年寄り連中、つまり従兄弟達によって企画運営されているのだ。ちなみに女房の祖父は8人兄妹だそうで、各支族の老人世代とその子供(中年に入りつつある)とその子供(ガキンチョ)の合計数掛ける8という計算で頭数が拡がって行くため、想定参加人数200人、実際来た人数は筆者が数えたところ220人という大宴会になったのである。

朝7時に起きて料理の支度をし(料理をしない男連中も何故か叩き起こされた)、12時にサンタアナ郊外のリゾート(レストランと少数の客室、それにスイミングプールを合わせたもの)に移動し、他の7支族の到着を待つ。女房の属する支族で一番年かさのボウイ叔父の話だと、8支族が毎年持ち回りで幹事を務め、今年は筆者の属する支族が幹事役なんだそうだ。つまり今年はボウイ叔父が党書記長で、エスター叔母とエド叔父が書記ってことね。「去年お前さんとシエナは海外旅行中で参加できなかったからな・・今日は楽しみだろう」と言って何時もの様にいやらしくグフフと笑うボウイ叔父。いや・・全然楽しみじゃ無いんですけど。

案の定開始時間通りに来る人間は一人もいなかったが、その内に大型バンがだんだんと到着し始め、1時半ころには200席用意した全ての席が埋まってしまった。女房は過去25年間リユニオンに参加していないため、他の7支族の人たちの2割くらいしか覚えていないと言っていたが、女房に挨拶に来る叔父さん叔母さんの方は年食って長らく時間が止まっているから女房の顔を見るなり「シエナ・・シエナ」と寄ってくる。それで女房の挨拶に付き合わされたりして時間を潰していたのだ。なお一族の結束の誓いとか一族からの除名裁判なんてものはもちろん無いばかりか、この1年間で新しく増えた一員の紹介なんてのも無いのだ。なんだよ・・自己紹介のセリフ諳んじて来たのに・・。

さて宴会の方はゲームをやったりカラオケをやったりと色々なアトラクションがあって子供達は大喜びである。当然の様に中年以上のオヤジ連中は端っこの方でプンタドールを囲んで酒盛り開始となり、ご婦人方は会場中央部のあちこちに集まって四方山話に忙しい・・という予想通りの展開である。筆者がいたテーブルには8支族の長老たちが集まって党政治局のようになってしまったが、ここでの会話は一族の昔話や近況報告の他には「酒飲んでもいいバイアグラ知らないか?」といった至極人間的な会話に終始してくれたので気軽に過ごすことができた。また別のジジイは若い頃ミュージシャンとして世界中のクラブを渡り歩いただけあってロッド・スチュアート張りのド派手なステージ衣装を纏ってカラオケのマイクを独占してしまい、1時間以上歌待ち状態になってしまった孫世代からシュプレヒコールを浴びて強制的にマイクを何度も取り上げられる一幕があったりと、一見の外国人にも実に分かり易い展開になったのが微笑ましかった。

実は筆者と女房はこのリユニオンに出るのが億劫で、タイとベトナム旅行中に上手くバックレる理由は無いかとあれこれ思案していたのだが、本来書記を務めるべき母親(早死にした)の代理として書記補くらい務め無いと体面が・・と女房が言うので渋々本会に参加となったのだ。ところが実際に大勢の人数に囲まれた時間を過ごして見ると、意外にもこの単純明快な集まりを楽しんでしまい、よし!来年は俺がミック・ジャガーのコスチュームでステージを賑わせてやるぞ!と楽しみに思ってしまうようになってしまった。日本の様に少子化が進んで、一族が会うのは誰かの葬式の時だけという暗さが無いのが良かったね。


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復活祭の前日の出来事

クリスマスの次に重要な復活祭(イースター)の真っ最中のフィリピン。キリストの逮捕から総督ピラトによる死刑判決、金曜日のゴルゴダの丘への連行と処刑、そして日曜日の復活。キリストの最後の一週間を「忠実に」再現するため全国民が金曜日には裸足で教会まで数十キロ歩くのが当たり前、中には手の甲に釘まで打ち付ける人もいるという。2000年前の殉教者の精神が遠く離れたここフィリピンで今に至るまで残っているということに今更ながら感動した。

さて土曜日に女房の母方一族が一族の出身地パンパンガ州に集まって朝から酒飲んでどんちゃん騒ぎをおっ始めた。はて・・キリストは明日日曜に復活するので今日土曜日は悪魔の誘惑を断つため終日家に籠って酒も肉も禁止のはず・・。ひょっとしてアナタたち1日計算間違って無いかと問い詰めると、一番年齢が上の叔父が平然と「最近はキリストが処刑された金曜の後はみんな酒飲んでも良いという解釈になったんだ!」と唖然とする答えが・・。

日本には普遍性のある宗教も思想も経営論も結局は生まれ無かった理由が良く分かった。基本のコンセプトはきっちり押さえるが、枝葉の部分は各自が勝手に拡大解釈できる余地を多分に残す・・これが何千年も生き残るコツで有るようである。枝葉末節に拘って本質から外れて行きがちな日本人はこの怠惰さを見習おう。


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マレーシア機はディエゴガルシア島に誘導された?

ますます混迷を極めるマレーシア航空MH370便の捜索であるが、ネットを見ていたら不思議な記事を発見した。beforeitsnews.comという初めて見たサイトに、マレーシア機はインド洋のディエゴガルシア島に誘導されて行ったという内容である。ただこの記事には航空機が予めこの米海の重要拠点に行くようにプログラムされていた!と書いてあるだけで、誰が何のためにそうしたのか?とか、では乗員乗客はどうなったのか?については全然書いてないのが仲々愉快である。それにディエゴガルシア島・・。この名前を聞くと筆者が大学生の頃に起こったもう一つの重大な航空事件、1987年の大韓航空爆破事件を思い出してしまった。

この事件では実行犯とされる金賢姫の供述から、北朝鮮がソウルオリンピック開催を妨害するために事件を起こしたと言われているが、当時テレビニュースを見ていた左がかった人間達(筆者もその一員だった)の眼には、翌月に実施される韓国大統領選挙で軍出身の盧泰愚を当選させようとするKCIAの謀略工作に写ったのだ。というのは民主派の金泳三と金大中がジリジリと指示率を広げ、盧泰愚は負けそうだったからである。しかしこの事件で韓国の国民は北朝鮮に対する危機意識が急激に高まり、投票日直前に金賢姫がソウルに連行されたこともあって地滑り的に盧泰愚が大統領に選出されてしまったのだ。

一方の大韓航空機の機体捜索は難航を極め、アンダマン海やビルマの少数民族が支配する地域などをくまなく探したが、結局ほとんど証拠になるような物は出てこなかったし、捜索のニュースも一ヶ月もすると誰も見なくなり、いつの間にかフェードアウトしてしまった。しかし考えてみれば変な話である。全斗煥本人の殺害を目論んだラングーンの爆殺テロならともかく、北朝鮮の工作員である金大中が韓国の次の政権中枢に入るかもしれないという時期に、中東への出稼ぎ労働者を載せた飛行機など爆破などすれば、殺したいほど嫌いな全斗煥の後継者である盧泰愚が政権奪取するに決まっている。しかしこうした素朴な疑問も金賢姫報道の嵐でかき消えてしまったのだ。

そしてディエゴガルシア島であるが、当時「大韓航空の謎を追う」とかいう名の深夜番組で、思いっきり左がかった大学教授が「撃墜されたのではなく、ディエゴガルシアに誘導されてたのだ」と言っていたのを思い出したのだ。本物の機体が米軍に拘束された後、インド亞大陸からミャンマー沖のチェックポイントを通過したのは替え玉の米軍輸送機機であるという説である。ただしこの教授は言語能力にかなり難があり、その他の論陣から徹底的にやり込められてしまったたのだが、彼が番組の最後に「これは大統領選挙にからむ謀略で、乗員乗客は米軍に殺されたんだ!」と叫ぶように言っていたのが印象的だった。

され今回のマレーシア機が仮にディエゴガルシアで拘束されて乗員乗客全員が米兵に殺されているとしたら、其の理由は何なのか?。筆者は2つ候補があると思う。第一はTPP参加を渋るマレーシアを脅しあげるという目的で、背後にはウォール街の金融資本がいるという説。日航機を撃墜して中曽根にプラザ合意を無理矢理調印させたロジックと同じである。第二は中国のヒステリックな反応を誘導することで東南アジアの米国依存を高めさせ、米国の軍事予算増大とアジアへの武器販売を図ろうという目的で、背後には軍事産業がいるというアメリカが過去世界中でやって来た説である。しかしここまで書いてみてウーン・・理由としてはちょっと弱いな・・と思ってしまった。

後は東マレーシアを独立させて親米政権を作るとか、アラブ諸国の核兵器開発に協力している事への懲罰とかだが、どれも昔断片的に記事が出ていた問題だけに今回の事件と関係する確証は無い。なるほど・・、情報と確証がなさ過ぎて前述のウエブサイトの記者と同様に話が止まってしまう。うーん・・やっぱりマレーシア機は中国軍に撃ち落とされたと考えた方がスッキリするか・・。でもディエゴガルシアに行ったと考えた方が陰謀論好きの筆者には楽しいんだけどね。


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旅のお荷物だった女房の重大な変化

今回ホーチミンには10日間滞在したが、この期間に訪問した観光名所は戦争博物館と統一宮殿(旧南ベトナム大統領府)の2箇所だけ。有名な地下トンネルやショロン地区には行くことも出来なかった。その原因は全て女房にある。

「ハニー(筆者の事)!暑くてもうこれ以上歩けないわ!」と道端にへたり込む女房。いつもコレである。ちなみにホーチミンはバンコクよりも暑く、暑さが平気な筆者でも2時間も歩くとかなり消耗するが、女房の場合はたった10分でカラータイマーが点灯し始めるのである。お前なあ・・白人の婆さんでも30分くらい平気で歩いてるってのに・・。

今回の旅の期間中は、チェンマイやハジャイでもイニットイニット(暑い暑い)と言って昼間はほとんど外出しなかった女房。昼飯を食うため渋々おもてに出る時は日焼けしたく無いと長袖シャツにジーンズに雨傘までさしてる異様な風体である。じゃあ夜なら活発になるのかと言うと、デパートや露店で品物を見定め(これがドエラク時間がかかる)店員との価格交渉に没頭するだけで、買い物にまるで興味の無い筆者に退屈で仕方が無い。旅への方向感がまるで合わないのだ。

女房にはもう一つ長い旅には耐えられないという弱点がある。会社をやめた今は時間的な制約が無いので2ヶ月でも半年でも旅に出られるようになったが、昨年の3週間のダバオ滞在、それぞれ1ヶ月のタイとマレーシアの旅の最中にも「いくら何でも長い」「もうプーケットは飽きたわ!」「早く家に帰りたい」と始終ご立腹の様を呈していたのだ。今回の1ヶ月半の旅でも1週間過ぎたあたりから物言いが出始めて、じばし衝突を繰り返していた。

ところがである・・。昨日ホーチミンの空港でマニラ行きの便を待っている時に女房の様子がおかしい事に気がついた。腹でも壊したのかと思って声を掛けると「ハニー!隣の15番ゲートはバンコク行きだって」と謎のような枕詞の後に「今からあの飛行機に乗ってバンコクに戻ろうよ」とウルウルした表情で言い出した。エエッ!意外な言葉に驚く筆者。なんでも1週間ほど前から帰りたくない、旅を続けたい・・と思うようになったのだという。お前なあ・・もう荷物も預けてイミグレも済ませたんだぞ。1時間前にそれを言ってくれれば良かったのに・・と文句が口から出かかったが無理して飲み込んだ。

これは女房の中に旅に対する姿勢がどうやら変わってきた兆しだと思えたからだ。なので下手に文句を言って女房の中に芽生えた「旅を住処とす」の萌芽を摘み取りたく無かったのである。相変わらず暑さには弱いだろうが、これなら毎年3ヶ月インドシナを回るとか、2年かけて世界一周とかにも出られるようなるかもしれない・・。よし!運が向いて来たぞ!とこみ上げてくる達成感を胸に、マニラへと戻るフィリピン航空機に乗り込んだ。


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アメリカのエリートが否定したい偉大なるミュージシャンたち

筆者は仕事上アメリカ人と話をする機会が多く、何気ない会話のネタとして映画や音楽の話をすることが多かった。特に音楽の方は高校生の頃からMTVを見ていたから得意なのだ。それで食事の後のバーではウィスキーグラス片手にジェイムス・ブラウンやエアロスミス、ボンジョヴィなど相手の世代に合わせたミュージシャンの話をするのだが、彼らと話している内にある一つの世代の音楽が彼らからすっぽりと抜け落ちていることに気がついた。

それはジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、もっと簡単に言うとウッドストック・フェスティバルに代表される60年代後半から70年代初頭にかけて一世を風靡した革命的な一連の音楽である(以下便宜上この世代の音楽のことを"ウッドストック"と称する)。

ベトナム戦争の泥沼に足を取られ壊れていくアメリカを背景に、ヒッピームーブメント、ドラッグ、セックスに溺れるアメリカの若者達のための音楽。ロックが本当のロックであった時代である。映画だと「真夜中のカーボーイ」や「イージーライダー」、「タクシードライバー」らアメリカン・ニューシネマの時代である。音楽史でも最も高く評価されるこの時代の音楽が、不思議な事にアメリカ人たちと話すとポコっと抜け落ちているのだ。

パット・ベネターとかリンダ・ロンシュタットにZZトップみたいなどちらかと言うと下層階級向けの歌手の話を東部の名門私立大学出身者にしても「さあ知らないな」と言うのは筆者にだって理解は出来る(泉谷しげるが慶応大学の卒業パーティーに登場したと想像してもらうと良い)。

これはアメリカは社会階層によって観る映画や音楽にスポーツ、そして買い物に行くショッピングモールまで違ってくるからなのだが、しかしジミ・ヘンドリックスやジャニスは後年のプリンスやマドンナの様に当時は社会階層を超えた国民的なミュージシャンであり、特に反戦運動の騎手であったアメリカの大学生たちには熱狂的に支持されていたはずだ。

例えばあるアメリカ人女性は1970年ごろにカリフォルニア大学バークレー校の学生だったと言うので早速ジミ・ヘンドリックスの話をすると、この女は露骨に嫌な顔をした。それで貴女は学生時代にどんな音楽を当時聞いていたのですのか?と聞くと「バーブラ・ストライサンド」と答えやがったのだ。

嘘つけ!このババア!本当はスティーヴィー・ニックスみたいにベルボトムのジーンズ姿でタンバリン叩いて公園で踊ってたくせしやがって!何といっても当時のバークレーは反戦左翼の総本山で、日本で言えば全共闘期の京都大学みたいな存在なのだ。それがアメリカ高教養お上品淑女協会選出のバーブラとは・・・。お前はよりにもよって一体何をぬかしとるんだ!

しかし筆者のこの疑問を解き明かしてくれたのがピーターというニューヨーク代理店の社員であった。彼は筆者以上の音楽マニアでウッドストック世代より少し年下にあたるが、「アメリカ人はあの時代の音楽を過小評価してるわけじゃない。現に俺の息子もジミヘンのファンだよ」と前置きした後で、愚鈍な筆者にも分かる様になぜウッドストック世代がアメリカン人ビジネスマンたちの会話から抜け落ちるのか説明してくれたのだ。

まず第一にとんでもなく古い時代の音楽なので今の若い世代は余程の音楽マニアでも無い限り知らないこと、そしてあの頃の音楽はアメリカの暗い時代を思い出させるので次世代には取っ付きが悪い事、そして第3に当時ウッドストックと同時代だった連中の場合はちょっと複雑な理由があって、彼らの半分は最初は支持していたのに後から否定に回ったからなのだ・・言う。この1と2はよく分かるが3の意味が分からかったので、ピーターに捕捉説明をお願いしたのだ。

「あの頃アメリカ全土の大学では反戦運動が盛り上がっていたけれど、実は大学生は徴兵の対象外だったんだよ。徴兵検査を受けさせられて戦争に行ったのはカントリー聴いてた田舎の高卒白人やブルース聴いてる黒人達だったんだ。つまり当時の大学生は絶対安全圏にいて反戦とか反権力を叫んでいるお気楽なご身分の連中だったのさ。」

「ところがニクソンがベトナムから手を引く様になると、今までヒステリックに反戦を叫んでいた大学生は手のひら返した様に愛国者に鞍替えして、ヒッピールックからスーツに着替えて大学から外の世界に飛び出て行ったんだよ!」

筆者はまだ理解出来ないので、その話とウッドストック系がどう関係するのか聞いたところ、ピーターは呆れた様な表情で筆者を見て「だから!今じゃ政府や企業の幹部になって、中には文字通り国を動かす立場にいる連中が、私は若い頃ウッドストック系の音楽を聴いてましてね・・といったら部下や選挙民はどういう反応をするか分かるだろう」

「『アンタは若い頃は安全圏で反戦叫んでた人なんですね・・。アンタが私のリーダーでいることに不安を感じて来ましたよ・・』って思われちまうと困るだろうが!。それでみんな自分は大学時代は勉強専門で大学院まで進みました、反戦運動なんて一切やってません、音楽はジャズとかバーブラ聴いてました!って言って誤魔化すんだよ!」

このピーターの説明を筆者は最初は半信半疑でいたのだが、その後10年以上アメリカ人と接している内にどうやら本当の事だと信じる様になって来た。と言うのは筆者は1950年頃に産まれた大卒以上のアメリカ人とはその後何百人も出会ったが、冗談でなくただの一人もウッドストック系の話に乗って来たり、反戦運動に参加したという人間が居なかったからである。

これが日本だとオヤジどもの6割以上はデモに参加したとしゃしゃり出て来るし、俺は安田講堂に立て籠もったと言い張る会社の元上司や、どう聴いても作り話だと思える機動隊との「銃撃戦」を自慢する税理士もいると言うのに、なぜアメリカのビジネスエスエリートたちは自分の過去を隠すのか?というと、やはり実は自分が国民の義務から逃げた卑怯者である・・と言う後ろめたさを感じているからであろう。

さてここまで書いて急にジミ・ヘンドリックスのThe Star spangled Banner(アメリカの国家)を聞きたくなったので動画サイトで映像を見ることにした。ウッドストック・フェスティバルのトリを務めたジミヘンの演奏でも最も有名な一曲である。日本では「これはベトナム反戦の意思表明である」と音楽評論家の誰もが言っていたが、ピーターにこの話をしたら「元アメリカ空挺部隊の隊員で多くの同僚を失ったジミが、そんな薄っぺらい正義感で国歌を演奏なんてするもんか!」と一笑に付された。

これはベトナム戦争で手足をもがれ生命を落としているアメリカの名もなき兵士たちと、傷つきボロボロになりつつあるアメリカという国家に捧げるレクイエムだと言う。その説明を聴いた時に、なるほど・・そっちの方がスッキリするなと胸の奥のつかえがストンと落ちた。





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ホーチミンでお勧めの日本料理店「ますお」

昨日は日航ホテルのビュッフェをボロクソに書いたので、今回は是非とも行って貰いたいレストラン、それも日本料理店を紹介したいと思う。何で外国まで行って日本料理なぞ・・とお思いの人も多いだろうが、この店はどの街にもある美味い定食屋といった感じで、滞在中ほぼ毎日行っているのである。

店名 : ますお (MASUO)
住所 : 106 LE LAI, P.BEN THANH
ニューワールドホテルからレライ通り沿いに西へ300メートルほど歩いたところにある)
営業時間: 昼11-2時、夜5-11時
定休日 : 日曜祝日
電話番号:090-358-7132

日本人の初老の夫婦がオーナーで、ご主人の作る料理の中でも煮物系はまさにオフクロの味と言った感じで抜群に美味いのだ。また「山芋と納豆定食、刺身付き(10万ドン=500円)」なんて格好悪いけど美味しいセットがあるのも嬉しい。昼の定食類は10万ドンから、夜の方は刺身やハマグリ酒蒸しなど一品料理は8万ドン、金目鯛やクエの煮物は15万ドンと値段もお手軽である。

ベトナム料理に飽きたら是非ともこの店で懐かしの定食屋の味を堪能して貰いたい。


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ホーチミン日航ホテルの名物ビュッフェ体験記

「○○くん!ホーチミンに来たら日航ホテルのビュッフェ行くことを是非とも勧めるよ!」と旧知のO社長(元働いていた会社の取引先である)はハイバチュン通りにある居酒屋で鍋をつつきながら何度も言った。筆者がホーチミンでヒマにしているとフェースブック経由でO社長から連絡が入り、ちょうどベトナムの工場視察に来たので飯でも食おうということになったのだが、このO社長は以前行った日航ホテルのビュッフェの余りの素晴らしさに相当感激したらしく、ホテルの株主じゃ無いかと思うくらい何度も何度も勧めてくるのである。

筆者も子供の頃に叔母たちに連れられて池袋の西武や新宿伊勢丹のビュッフェ(当時はバイキングと呼ばれた)によく行った口で有り、何より大食いな筆者には色々な料理を値段を気にせず好きなだけ食べられるのが嬉しかった。そして大学時代は焼肉屋の1000円食べ放題ビュッフェには散々お世話になったし、会社員になってからは新宿や吉祥寺のビュッフェレストランでステーキを軽く1キロくらい食べていたものだ。しかし25歳の時にある出来事が起こってからビュッフェに行くのはすっかりやめてしまった。

イタリア・ミラノの取引先が突然日本に来て今日の夕方にミーティングをしたいと電話がかかってきた。ところが海外営業部のメンバーは全員香港で開催されている展示会に出払っていて誰もいない。結局英語が出来るのはお留守番役を仰せつかった筆者だけということでお鉢が回ってきたのだが、香港にいる上司からは「大事なお客だからちゃんと接待もするんだぞ!」と言われたのには困ってしまった。というのは筆者は半年前に銀座にある海外営業部に配属されたばかりであり、銀座周辺で外国人の接待に使えるような店は知らないし、安月給だったから小洒落たイタリアンなんて行ったことがなかったのだ。

商談を何とかこなすと、会社のある銀座4丁目からタクシーで有楽町の帝国ホテルへ向かう(歩ける距離だが大事な客なのでわざわざタクシーで行った)。日本で一番有名なホテルだから美味いはずだし、ここのバーには先輩によく連れて行って貰ったので食事の後に来れば良いという算段である。それでグリルへ行き「電話で予約した○○です」と名前を言うと早速席へと案内されたのだが、このレストランは予想と違ってその日はなぜかビュッフェスタイルだった。この時筆者は「これなら注文に苦労しなくて良いし、客の二人も好きなものを食べられるから良かった」と正直思ったのだが、この数分後に自分が重大な間違いを犯した事に気がつくことになる。

ガヴィ・デ・ガヴィという会社の姉御格の女性社員が好きなワインを頼むと早速料理を取りに行ったのだが、お客の二人はテーブルに座ったままである。それで変だな・・と思って二人の元に戻ると、若い方が「俺はアラカルトメニューを食べる」と不機嫌そうな顔で言う。えっ?なんで?ここにはこんなに色んな料理が有るのに?と不思議に思ったが、上司には大事なお客だと言われているので逆らわずに「どうぞそうなさって下さい」と答えた。その時に二人は顔を見合わせて「ああ・・やっぱりな・・」という感じで頷くと、年かさの方が少し笑みを浮かべて「君は最近営業に来たと言ったけど、お客と食事をした経験は余り無いんじゃないか?」と言った。

相手はあくまで紳士的に言うので、筆者も本当の事、つまりこれが筆者単独では最初の会食であり、それにどのレストランが美味いのか東京の東半分は実は全く知らないので、帝国ホテルなら・・と思って予約したことを正直に白状すると、若い方も幾分態度を和らげて「美味いかどうかは運次第だから、このホテルを選んだ君に責任は無いが、ビュッフェを選んだ事に我々は失望したのだ」と言った。しかし筆者にはどういう事なのか皆目理解出来ない。それで筆者のポカンとした表情をみて「こいつは何も分かって無いだけだ」と確信したのだろう、年かさの方が馬鹿にも分かるように説明してくれた。

リストランテやトラッテリアなどの飲食店の格式の違いは、フルコースを前提にしているとか内装が豪華であるかという事よりも、店がどれだけ客に手間をかけているかの差なんだと言った。ドア係がテーブルまで案内し、ウエイターがメニューを今日の肉の質まで詳しく説明して注文を取り、シェフはウエイターから聞いた客の情報を元に味付けを変え、ソムリエは客の懐と好みに合ったワインを探し出し、フロア係はナプキンを客の首にねじ込んだり、料理を運んで取り分けたり、しょっちゅうテーブルを掃除しに来るのは、店としてお客を大切にもてなそうというサービス精神の表れである。お客はそのサービスへの尊敬を込めて正装して店に表れ、サービスへの対価として高い料金とチップを払って帰るのだ。

「ところがビュッフェには今言ったもてなしが一つも無いだろ?」。年かさの方の結びの言葉を聞いた時に筆者は愕然としてしまった。手間をかけた料理を大切な顧客に提供する。こんなの当たり前すぎて子供でも分かる話だが、筆者はそんな事さえ考えてこなかったのだ。そして筆者は自分の無知を正直に二人に詫び、あいにくアラカルトメニューは提供出来ないと言うのでレストランを出て、筆者が普段昼飯を食う銀座の寿司割烹に場を移して接待の仕切り直しをした。(蛇足だが、この時筆者は日本の寿司職人たちの類稀なプレゼンテーション能力と客あしらいの巧みさを知ることになる)

それ以降筆者はビュッフェは公私共に一切使わず(ホテルの朝食は除く)、会社で偉くなってからはビュッフェでの接待は禁止にしたし、昨年ボラカイ島で皆がビュッフェを食おうと言い出した時には金主として拒否権を強行した。「作り置きの料理を客に取りに行かせるとは何事だ!そんな店に行くくらいなら俺はカップヌードルを選ぶぞ!」という論理である。それでも一晩だけ従兄弟のジェンが奢ると言うので彼が行きたがっていたビュッフェを食べたが、案の定見てくれだけのスカスカな料理ばかりだった。ただしジェンの好意を無駄にしたくなかったので「意外にいけるね」と美味そうに食べてる振りはしておいたが・・。

さてO社長は「ロブスターにカニにオイスターが山のように積まれてて、もちろん他の料理も充実してて、ワインも飲み放題で40ドルなんだ」と言っていたので、ホテルに戻った後ネットで調べてみると、料金は55ドルに値上がりしていたが、「アジア随一のビュッフェ」「ベトナム在住者も月一で行く超穴場」などとべた褒めの記事が幾つもある。それにオイスターが山のように・・というのが気になった。筆者も女房もオイスターは大好物であり、筆者はパリの行きつけ(だった)のレストランでオイスターを3ダース食べて店の主人に驚かれたくらい牡蠣好きなのだ。

さてインターネットで7時に席を予約、タクシーに乗って日航ホテルに到着し2階のル・ブラッセリーと言う名のレストランに行くと、250席あるレストランで空いてるのは2テーブルだけという凄い混み具合である。これは美味いに違いないと思ってさっそくオイスターの山から1ダース小皿にとって食べてみたが「・・・・」。女房も同じく「・・・」である。それでロブスターのバターソテーとタマリンドソースの2種類頼んだが、両方とも身がパサパサで「・・・」、大振りのベトナム蟹のシンガポール風と蒸しただけの2種類とも「・・・」だった。それにステーキは焼き過ぎだし、パスタは学園祭の出店の方がよっぽど美味いくらいだし、一品料理類はわざと不味くしたんじゃないかと思う位なのだ。このレストランにはマトモなシェフが1人も居ないのである。それからウエイトレスのダメさ。このレストランはロブスターの料理法(バターソテーとかチーズ焼き)はウエイトレスにオーダーするルールなのだが、どんな料理方法にしますか?と聞いてくるだけで、レストランがどんな料理方を揃えているのか一切説明しないのだ。料理方法のメニューも無いのに客がレストランの出来る料理方法をエスパーのように当てるべきだと思いあがっているのである。さすが日航!それから飲み放題のワインは飲むと頭が痛くなる代物だし、結局二人ともこれは美味いと思ったのはサラダコーナーに置かれたカマンベールチーズだけという体たらく。これで1人110万ドン(55ドル)である。おい!料理長!お前んとこの低級シェフらに料理されるために命を落としたロブスターや蟹や牛に謝ったらどうだ!もっともお前んとこの親会社は御巣鷹山の事故の時も動物が死んだみたいな口調で遺族に文句垂れてたから、生命なんで概念ねえんだろうけどよ!

結論 : やはりビュッフェってのはロクなもんじゃない。どんな事があっても二度と食うもんか!



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デブセン常務の悲劇(3)

その後もK先輩は森公美子と秘密の逢引を続け、その一方で会社ではシンディーというアザラシのような香港娘を秘書として採用したり、リサ・チャムというこれまたアザラシのような中年女医を美人だと発言するなど奇矯な言動が時たまあったが、香港支店にはもっと性的にイカレた駐在員が数多くいたためK先輩の異常な性嗜好がとりわけ話題となり周囲に広まっていくことは無かった。

しかしK先輩の悲劇は、日本帰任と同時に、会社の極めて重要な部の部長に取り立てられ、彼の義父とナチス親衛隊員の様なクソ真面目な取り巻き達に囲まれてしまったことである。K先輩はデブセンという重い十字架を心の奥底に隠さなければならなくなったのである。

デブ女にかぶり付き、デブ女の体をむさぼり食い、デブ女の群れに飛び込んでおしくらまんじゅうされた挙句に悶絶・昇天したい。K先輩は心の底からそう渇望しているにもかかわらず、毎日深夜まで東証上場に向けた仕事に追われ、彼の美の基準では全く性的魅力を感じない渡辺真理似の妻が待つ目黒の豪邸に帰らなければならなかったのだ。

しかも当時会社はオーナー一族出身の社長解任劇でマスコミを賑わせており、暴力団や事件師たちに付け入られ無いよう重役達は会社と自宅の往復以外は許されなくなっていた。そう、その頃不運にも取締役に昇格していたK先輩の特殊な趣味を満たす方法は全て絶たれてしまったのだ。

昨年筆者が会社を辞める際にK先輩はささやかな送別会を催してくれた。久しぶりに会ったK先輩は思いの他明るかったが、話が森公美子やデブ女の事になると急に表情を変えて「何それ?知らないな」と会話を閉じてしまう。もう義父は他界したのだし、常務まで登り詰めたのだからデブセンをカミングアウトしてもいいのでは?と思ったが、K先輩は自分の性嗜好を今でも恥じているのか、いつまでも秘密を守り続ける事を選択したようだった。

しかし対面を守ろうとする彼の理性と、心の奥底から叫び声を上げる本能との齟齬が彼を引き裂き、そして破滅へと向かわせてしまったようである。帰り際にこれから六本木で飲まないか?と誘った筆者に、「壁に耳あり障子に目有りだからね」と謎のような一言を言って笑いながら去って行ったK先輩の後ろ姿はなんだか寂しげに見えた。

会社の同僚の話では、離婚した場合はこれ以上の昇進は望めないどころか、おそらく本社役員の地位も外されてシンガポール事業圏の責任者か仙台にある国内製造子会社の社長に飛ばされるのではないかという話である。世間体を気にして離婚せずに今まで通りの仮面の日々を続けるのか? それとも全てを投げ打って本能の指し示す道を選ぶのか?K常務は今53歳。まだ色恋で一花咲かせられる年齢である。なので筆者はこの大好きな先輩が自分自身の人生を歩んで欲しいと思っている。

デブ女に揉みくちゃにされ脂汗と体液まみれになってアヒャーッ!と喜悦の叫び声を上げる日々。K先輩!他人の目に自分がどう映るのかを幸福の基準にするのはやめて、もうそろ自分の奥底から聞こえる内なる声に耳を傾けたらどうだろうか?



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デブセン常務の悲劇(2)

それから2年後、K先輩と筆者は当時設立されたばかりの香港支店のある部に配属となり、昼よりも夜の顧客接待に忙しい毎日を過ごしていた。K先輩はナイトクラブでも身の振る舞いがスマートなためホステス達から随分モテモテであったが、どの女とも深い関係には至ることは無い。

店で一番のエニーという女は店がはねた後にK先輩を何度も引っ張り込もうとしたが、その度に巧くはぐらかされてしまう。「アタシの誘いを断わったのはアイツだけだ!」とK籠絡に執念を燃やすエニーは酔っ払って筆者に思いをぶちまけることも多々あったが、筆者はK先輩の特殊な嗜好は言えないのでただただ沈黙を守ることにした。

赴任から3年経過した香港返還直前のある日に、何時ものように尖東のナイトクラブで取引先と飲んでいると、別のクラブのオーナーである知り合いの日本人女性が筆者らのテーブルに割り込んできた。この人はタレントの森公美子に似たガラッパチのおばさんで、自分の店の客をこの店に連れ込んで気炎を上げていたがすっかり酔っ払ってしまい、酔い覚ましに個室を出たら筆者を発見したという具合である。

「おい!○○(筆者のこと)!おまえ最近ウチの店に来ないと思ったらココにいやがったのか!」とわめきながら相撲取りのような体を筆者にギューギュー押し付けてくる。そして反対側のソファに陣取るK先輩に向かって「あんた!初めて見る顔だな!アタシはなあ!」と自己紹介した後、K先輩とエニーの間に無理矢理ズルリと割り込むや(ズズズズズーという感じでエニーが押し出された)、「おい!アタシにもコルドンブルーだ!」と厚かましく酒を要求する森公美子。

エライのが来ちまったな・・と思ったが、事態は意外な方向に展開し始めた。

森公美子がK先輩の肩に手を回しながら「おーし!乾杯すんぞ!」などと新小岩のぼったくりバーのマダムのような調子で飲み始めたのだが、K先輩の調子が明らかにおかしい。なんかソワソワしているし汗のかき方が尋常では無い。そのウチに森公美子は巨体をK先輩に密着させ「あんた!ほらほら!好きなんだろう!」と訳の分からない事を言い出すが、K先輩は何かが込み上げて来るような表情を浮かべたまま、目を閉じてウンウンと頷き始めた。

「やっぱりそうか!」と淫靡に笑う森公美子の手がK先輩の秘部へと伸びていき、ズボンの上からギュウという感じで握り始めた。そしてその時テーブルにいた全員が見たものは、ズボンの上からでもハッキリと分かる巨大なテントだった。

「ああっ!K先輩が勃○してる!」と思わず叫んでしまう同僚。そしてあまりの衝撃に茫然とするエニーらホステス達。しかし恥もタガが外れてしまったK先輩は森公美子にゴロニャンという感じで絡みつき、やがて二人は何の挨拶も無く店外へと消えて行った。

後にはヒステリックにわめくエニーと唖然として声も出ない男達が残された。



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デブセン常務の悲劇(1)

以前働いていた会社の同僚からK常務が離婚するかもしれないという話を聞いた。数年前から奥さんとの不和が続いていて家に帰っておらず、また奥さんの母校である青山学院の高等部に通う娘ともほとんど口をきいて無かったという。

「これから専務、副社長、社長とのし上がって行く最中だったんだ・・それにあんなに夫婦仲睦まじく暮らしていたにのに・・」と友人は訝るが、筆者はその理由が何と無く理解できる気がしたのだ。

K先輩は筆者より6歳年上であり、筆者とは銀座と香港で一緒に机を並べて仕事をした仲である。名門私大の大学院卒だけあって頭はずば抜けてシャープ、会社では設計開発から商品企画、マーケティングまで幅広い職種の経験を積み、大物役員の美人の娘(当時TBSの新人アナだった渡辺真理にそっくりだった)と結婚して社内での地盤は固めているのである。

おまけにこの方は性格は温厚で敵など誰もいなかったから、いずれは社長になる男と誰もが認めていたのであった。しかし筆者はこのエリートを絵に描いたようなK先輩には人には決して明かせない秘密があることを知ってしまったのだ。

ある日K先輩から家で麻雀をやらないかと誘われたので(K先輩の唯一の趣味は麻雀である)、会社の麻雀仲間を誘って江東区にあるK先輩のマンションに行くことにした。奥さんは自分の出身校のバザーに行っていて、その後実家に泊まるので今夜は不在だという。

ところがもう一人の面子が道に迷ってしまい(北海道のド田舎から東京に遊びに来た医者だった)、K先輩が新宿のホテルまで迎えに行かなければならなってしまったので、しばらく筆者と同僚は家で留守番していてくれよ・・ということになった。

しかし待てど暮らせど戻ってこない。それに携帯電話など無い時代だったからK先輩とも連絡が取れない。暇だな・・ビデオでも見るか・・ということでビデオテープの棚を見たが、ヴィスコンティの「熊座の淡き星影」とかヘルツォークの「アギーレ神の怒り」みたいな高尚な映画ばかりでとても観る気にならない。

その時同僚が「おい!K先輩の手提げカバンにビデオみたいなのが何本か入ってるぞ」と言った。なるほどソファの上に放り投げたカバンの口が空いていて、有名レンタルチェーンの袋が見える。どうやら今日レンタルビデオ屋で借りてきたようである。そこで筆者が袋を開けてビデオを取り出したのだが、パッケージを見た時(全部で4本あった)全身に衝撃が走った。

それはデブ女、それも徹底した肥満体の女をこれでもか!というくらい集めたエロビデオだったのだ。ビデオテープを手にとっただけで濃厚な脂汗の臭いが漂ってくるかのような物凄い代物である。あまりの衝撃に言葉の出ない筆者と同僚・・。しかしその時に分かったのだ。なぜK先輩は筆者らとキャバクラに行っても全然ハマらないのか。なぜヘルスやソープに一緒に行かないのか。そして何故30歳を過ぎるまで浮いた噂の一つも無かったのか・・。(続く)



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戦争証跡博物館のトンチンカンな人たち

毎日ホーチミン市内をブラブラしたりマッサージにプールで泳ぐだけでは味気ないので、女房を連れてベトナム戦争の記録を展示してある戦争証跡博物館に行くことにした。前の日記に書いたとおり女房にはこの戦争に関する知識が無く、それ以前に何でフランスパンがベトナムのあちこちで売られているのかも知らない為、博物館に行って展示物を見れば少しは理解が進むのではないかと考えたからである。

一人15000ドン(30ペソ)の入場料を払って敷地に入ると、そこにはベトコンに捕獲された米軍の戦闘機や戦車に大砲の数々が置かれている。筆者らもミーハーよろしく写真を撮りまくった後で建物に入った。

博物館の建物は3階建てで、一番上の階には日本降伏後のフランスの再進駐とディエンビエンフーの敗北によるフランスの撤退、アメリカの軍事顧問団派遣といった戦争本格化前の展示がされていて、2階に降りると米軍の介入と戦争の泥沼化に北爆、そしてパリ和平協定から米軍の撤退までをカバーし、最後に1階で南ベトナムの崩壊と社会主義化というようにベトナムの現代史の流れを追えるようになっている。

展示はほとんどが写真ばかりで興ざめしたが、英語の注釈が書かれているので女房は興味深そうに見ていた。特にソンミ村の虐殺や枯葉剤による胎児への影響については目を覆いたくなるような写真のオンパレードで、鈍感な女房も「いくら何でもこれは人道的に許せないわ!」と息巻いている。

そうそう!第二次大戦後は資本主義対社会主義の対立軸で世界の事象を捉えて来たが、それ以前に植民地支配者の白人と抑圧される有色人種の対決こそアジア人が真っ先に記憶しなければならない事である。ここには右翼や左翼の垣根を越えたアジア人にとっての正義が有るのに、自ら進んでアメリカの三級海外国民を目指そうとするのは間違いだとフィリピン人は早く気づくべきだ!まあとは言え日本人も同じなんだけどね・・・。

さてこの博物館の率直な感想を言うと、以前にワルシャワの歴史博物館でみたナチスドイツによるポーランドの徹底的な破壊の記録に比べれば壮絶さが不足しているし(アメリカはベトナム人の人種根絶は意図してないので無理はないが)、何よりベトナム共産党のプロパガンダ臭が強くて筆者は興ざめしてしまったのだが、2階にあるインドシナで命を落としたジャーナリストたちへのレクイエムコーナーには胸を打たれた。

ロバート・キャパ、沢田教一、一ノ瀬泰造、そして名も知らぬ名も無きカメラマンたち。優れた報道作品にある一瞬のリアリズムの輝きに満ちた数々の写真が回廊の様に展示されているのは一見の価値がある。

さて沢田教一の「敵を連れて」に見入っている時のことで有る。筆者の後ろから日本人の団体ツアーの一団がベチャクチャ話しているのが聞こえたのだが、ガイドらしき日本人が「本当に戦争というものは愚かですね!」と言うのが聞こえた。

そして何人かが「本当にその通りだ!」「戦争やる奴って馬鹿だよね!」と相槌を打っている。この話を聞いた時に筆者は思わず口をあんぐりと開けてしまい、後ろを振り返って一団を見たが、年齢も性別もバラバラのパックツアーの一団の様であった。

今更言うまでもなく、ベトナム人は戦争をしたからアメリカ人を追い出せたのである。それにこの博物館はフランスとアメリカによる搾取と迫害を糾弾し、多大な犠牲を払ってゲリラ戦を継続し最終的に勝利したベトナム共産党とベトナム人民を世界に喧伝するプロパガンダ機関なのだ。

それなのに一体この博物館のどこをどう見たら戦争は愚かだという結論に至るのか?筆者にはプリズムの様に見たものを屈折してしまう彼らの思考回路が全く理解出来ないのだ。それに戦争が悪だと言うなら、ベトナム人はただデモだけやっていればアメリカが撤退したとでも言うのだろうか。

今でこそアメリカはフランスの肩代わりをさせられた気の毒な立場だったと思えるようになったが、当時のアメリカにはドミノのように共産化していく自由主義陣営(実態は独裁国家が多かったが)を守ると言う彼らなりの理念があったのだ。ベトナム人のデモを見たくらいで戦争で死んだアメリカの若者との復讐の誓いをかなぐり捨てるわけなど無い。

そこでこのツアーの連中に何か言ってやろうと思ったが、女房が筆者の不穏な感じを察したらしく筆者の腕を取るので大人しく黙ることにした。

筆者が嫌いなのはこういった平和ボケの左巻きたちである。自分達は頭が良いと思い込んで高みの見物を決め込んでいるが、彼らは今日世界の国境線で起こっている事態を一つも説明出来はしない。昨今この手の連中はアメリカ式の経営論を囓ってブレークスルー戦略とか空論を唱えるビジネスゴロに商売変えしているようだが(どの会社でも企画という名称が付いた職場は、こうしたヘナチョコ野郎どもで溢れている)、トンチンカンなレトリックに騙される愚鈍な主婦やアホ学生は日本のどの時代でも一定の比率で現れる様である。

さて1時間半ほど博物館を見学した後でホテルに戻ることにした。女房に「どうだった?」と聞くと、 「ベトナム人が戦ったのは当然よ!だってあまりに酷い迫害じゃないの!」と至極真っ当な答えをする。よしよし、さすが我が女房である。

ところがその後に一言「日本軍はなぜアメリカと組んでベトナムに攻め込んだのか?」と耳を疑うような事を言った。お前・・な何を言っとるんだ・・。どうやらここにも左巻きの日本人とは別種のトンチンカンがいることが分かった。

いや・・お前には幾つも間違いが重なってて何処から説明したらいいのか分からんが、まず最初に日本軍=虐殺者というステレオタイプの思考を別の時代に当てはめるのを止めろ!だいいち日本軍は民間人の組織的虐殺などやっておらんぞ。



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ホーチミンでジョージ・オーウェルを読む

退職してから時間だけは腐る程有るので、会社員時代にネット経由で香港に送ってもらったが途中で挫折したり、斜め読みして十分吟味できなかった本をじっくり読む様になった。もう以前の様にポーターやミンツバーグらの小難しい屁理屈を解読する必要は無くなったので、古典的な名作や筆者の好きな分野の書籍に耽溺できるのが嬉しい。香港から500冊くらいマニラに運んだから(ビジネス関連の本は全部部下にくれてやった)、あと5年くらいは退屈しないで済みそうである。

さて今回の旅にも未読の本を沢山持って行ったが、最後に読み残したのは案の定ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」であった。この本は大学生の時に一度読み始めたのだが、スペイン内戦というドラマチックな舞台とは正反対のそのあまりに抑揚の無い平易な文章に途中で挫折してしまった事がある。そして40歳を過ぎた頃にもう一度チャレンジしたのだが、今度は大学生の時よりも前のページで脱落してしまった。

この「カタロニア賛歌」は有名な本だが、一応ストーリーを説明すると、独裁者フランコと戦うためにオーウェルは人民戦線の義勇軍に一兵士として参戦するが、ソ連に指導されたスペイン共産党による人民戦線内の指導権争いと亀裂を目撃する。やがて人民戦線は敗北を続け、オーウェル自身も負傷兵となって戦線から離脱してしまうのだが、独裁者打倒の理想の裏に潜む政治の残酷さを浮き彫りにした第一級のルポタージュであるようだ(ようだ・・というのは筆者はまだ半分くらいで止まっているからである)。

オーウェルの「1984年」や「動物農場」と同様に硬直したスターリニズムを人間的な社会主義の観点から批判したプロットであるが(ソ連からはトロツキストと批判された)、同じく人民戦線側で戦ったヘミングウェイの「誰が為に鐘は鳴る」に比べると、(ラブストーリーが無いのはまだ良いとしても)基本設定が分かりくい、と言うよりも入りにくくて読む気にならないのだ。

スペイン内戦は一般には「フランコ=悪」であり、人民戦線は悪と戦う正義の志士と理解されている。だってそうだろう!フランコを援助したのはヒトラーだし、美の巨人ピカソは都市爆撃に激怒してゲルニカを描いたじゃないか!それに世界中の理想に燃える青年達が国際旅団に志願して戦ってるんだよ!まるで20世紀のジャンヌ・ダルクだろう!お前は人民戦線が正しいとは思わんのかーっ、という具合である。

ところがオーウェルは人民戦線は内部抗争に明け暮れていて統一司令部が機能していないだけで無く、アナーキストや社会主義者ら主流派は戦略戦術的に余りに稚拙で戦争を展開する能力などまるで無いし、一方の非主流派(後に主流派になる)である共産主義者グループはナチスドイツ牽制の為フランスに警戒心を抱かせたくないスターリンの意向を受けて(スペインに革命政権が誕生するとフランスは軍事力をドイツ国境から割り当てなければならなくなるため)戦略上の手抜きをしていたと言うのである。つまり皆が持つスペイン人民戦線の英雄譚のイメージをぶち壊してしまうのだ。ただしこれは調べてみると事実なんだけどね。

歴史には批判しにくい禁忌の領域が幾つかあるが、スペイン人民戦線と並ぶ最も代表的な例がベトナム戦争時の解放戦線(ベトコン)であろう。ベトコンは南ベトナム人民の自発的な行動であるというプロパガンダを世界中が信じてしまい、巨悪アメリカと戦う正義の解放戦線という構図で全世界の目が凝り固まってしまったが、サイゴン陥落の後に解放戦線のメンバーがハノイの指導部の手によってだんだん粛清され始めると、人々は呆気にとられてしまい世界中の知識人は口をつぐんでしまった。解放戦線は実はハノイの欺瞞工作の産物であり単なる道具であったことを誰もが認めたくなかったのである。

さて昨日さっそく「カタロニア賛歌」をホテルのプールサイドで読み始めたが、やはり予想以上の歯切れの悪さに何度も中座して泳ぎに行ってしまい、結局30ページも進まなかった。燦々と輝くスペインの陽光にような人々の人懐こい笑みが消え、人民戦線という英雄譚の影にある生臭い現実が匂い始めてきたからである。ページをめくるほど純粋な気持ちで参戦した兵士たちの残酷な運命に胸が痛んできてページをめくる気が失せてしまう。やっぱりこの本は俺に向いてないな・・。また今度機会がある時に読む事にしようっと!


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アフリカへ消えた友と私の物語

タイ最後の夜に、大学時代のサークルの後輩で現在バンコク在住のFと1年ぶりに会った。この男は超大手日本企業のタイ現地法人社長として毎日偉そうにしているが、元々は25年前にタイ魅了された筆者のタイ話にすっかり洗脳されてすぐ様タイに行き、当然のごとくタイにどハマり、結局タイ人の女房を貰ってタイに永住する様になった単なるタイフリークである。ただしこのFは他の人の様に身を持ち崩したり、筆者のように香港やフィリピンへぶれること無く、ちゃんと日本企業のバンコク駐在員(日本本社の正社員である)として長年に渡ってキャリアを積み、それも過去2回の転職でより好条件の企業へとステップアップしているのだ。昔から頭はキレたが目鼻も相当きく男なのである。

トンローの焼肉屋で昔話や近況に花を咲かせているうちに、二人ともすっかり酔っ払ってしまい、当然のごとく話はお色気系、それもどの国の女が凄いか?はまりやすいか?、という話になった。筆者も仕事であちこちの国に行き、当然そっち方面も随分経験しているので話は尽きないが、Fは高校時代にホームステイ先の金髪女とやりまくり、大学時代は日本の風俗を徹底的に極め(異常に金運は強かったので毎日でもヘルスに行けた)、会社に入ってからは東京にある全ての外国人風俗に通いつめたくらいだから(20代前半でルーマニア人にはまり込んでいた)、こりゃ議論に勝ち目があるわけ無い。

そこで筆者は個人的体験ではロシア、ただし会社の同僚で一番助平な渡辺という男から聞いた話ではケニアだと答えた。黒人のアソコというのは堪らない・・とうっとりする様な顔で渡辺が話していた内容を、どうだ!凄いだろう!という感じでFに説明すると、このFは「アフリカ人なんてバンコクでいくらでもヤレるよ」とケロリとした顔をして言う。さすがバンコク・・恐れ入りました。

Fの話ではスクムビットの某通りは夜になるとアフリカ人の女たちで溢れかえり、バーや道端で客を引いているというのだ。料金は1500バーツ前後、客は白人が多いらしい。「黒人の女ってのは肌が吸い付いて来る感じで堪らないんですよ!あれとやったら白人なんてバカらしくって抱けないですね!」と嬉しそうに言うF。さらにFによれば同じアフリカの女でも種族によって抱き心地が違うのだと実に詳しく(例えるならルワンダ虐殺の際に専門家がツチ族とフツ族の違いを説明した様に)民俗学的かつ生物学的考察も交えて説明してくれた。あの〜キミは本当に会社員?

ではお前はどこの女が一番いいのか?と聞いたところ、Fは「それはブルンジだ」と淀みなく答えた。日本人好みの可愛らしい顔つきながら、ケニアやモザンビーク、ナイジェリアの女のような爆発的な野性味を体の奥深くに秘めているのだと言う。「ブルンジの女はサイコーですよ!あの黒い肌を考えるだけで頭がおかしくなりそうで・・もう一週間に一度はブルンジの雌を抱かないと気が狂っちまうんじゃないかと・・もうブルンジの体・・ブルンジの・・ブルンジ〜ッ!」と何度もブルンジの名を叫びながらニタニタ嬉しそうに笑うF。

店からの帰り道に女房が「あの人やたらとブルンジって単語言ってたけど、ブルンジって何?」と聞かれて誤魔化すのに困ってしまったし、Fはずいぶん遠くへ行ってしまったと複雑な気持ちがしたが、でも筆者はFから実に貴重な事を聞いたと思った。昨年フィリピンに引っ込んでからはフィリピン人以外の女を堪能することなど何の夢も持っていなかったが、今度バンコクに来る時にはハジャイの金玉マッサージで精力アップした後、是非ともブルンジの女を試してみようと思う。なおバンコクの場所についてはFから詳しく聞いたので、筆者が次回体験した後で日記に公開することにしよう。


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ホーチミン到着後の衝撃

昨日ホーチミンのタンソンニュット空港から1区にあるホテルまで向かう途中、タクシーの車窓から見覚えがある建物が見え始めた。旧南ベトナム大統領府。1975年4月30日のサイゴン陥落の舞台となった歴史的な場所である。

「わーっ!おい!見ろ!」と筆者は思わずはしゃいでしまったが、隣にいる女房は筆者の方を不思議そうな目で見ている。それで北ベトナムの兵士にとってここが最終目的地だったんだとか、世界最強のアメリカが初めて敗れた瞬間だったんだ!と説明した。

女房は筆者の説明を分かった様にフンフンと頷いていたが、筆者がゴ・ディン・ジエムやウエストモーランドなどベトナム戦争の主役たちの話になった時、女房の口から衝撃的な一言が出た。
「この国って戦争かなんかしてたの?」

その後タクシーの中は深い沈黙に覆われてしまった事は言うまでもない。そして今日ドンコイ通りのルイヴィトンの店と食品スーパーだけ見て大変満足した女房は、今ホテルのベッドで気持ち良さそうにスヤスヤ寝ている。


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バンコクの絶品フカヒレスープ

今回のタイ旅行ではタイ南部の飯が不味いという日記しか書いていなかったので、今回は一ヶ月の滞在中に一番美味いと思ったレストランを紹介したいと思う。その店はバンコクのチャイナタウンにある「海外天餐室」という広東料理店である。

大学時代にジュライホテルで一緒につるんでいた旧友Hくん(バンコク在住)と再会することになり、H君がしょっちゅう食べていて美味いと思うとこに行きたいと頼むと、彼が迷わず選んだのがココである。この店は入り口が厨房になっていて、料理人が中華鍋を掻き回している脇を抜けて行かないとテーブルにたどり着けないような狭苦しい(かつとても汚い)店なのだが、ここの料理、特にフカヒレはハジャイの有名店など足元にも及ばないほど味の方が絶品である。

筆者らがオーダーしたのはフカヒレスープ、鴨の足の煮込み、椎茸と湯葉の炒め物、カニと春雨の土鍋蒸し、そして海鮮炒飯であるが、最初にフカヒレを口にした瞬間にこの店がただ者でないことを知った。香港の福臨門や新同楽など超一流店に匹敵する味だったのだ(ちなみに飛び込みで香港の一流店に行くのは止めた方が良い。一見の客にはその店で最低のコックが作る料理を出すからだ)

フカヒレは実に濃厚芳醇な味付けで煮込まれていて口の中にジュワッ〜ンと旨味が広がって行くのが堪らない。また鴨の足もジックリと煮込んでいるのにプリプリ感が残っていて口当たりが実によろしいのだ。材料も料理人も上等であることの証である。それから椎茸の炒め物、カニの土鍋蒸し、チャーハンも香港のAクラスの味は出せているが所詮は脇役。ここはやはりフカヒレかアワビを注文してナンボであろう。

さて気になる会計の方は3人で2500バーツであった(1バーツ=3.3円)。タイの物価を考えれば結構高いが、充分それに見合うだけの味なのでバンコクに来て美味いものを食べたい人は是非ともこの店を訪れて欲しい。場所であるが、ホアラムポーン駅前からチャロンクルン通りをまっすぐ西へ5分ほど進み、ソイサワット通りとの交差点を左に曲がって1分ほど歩いたところの道の左側である。なお店はものすごく混むので12時前に入店することをお勧めする。


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バンコクで出会った奇妙な男の正体

筆者がラマ4世通りをシーロム方向に歩いている時に、目の前に大柄な日本人が通りかかって「おい!キミキミ!」と慌てたように声をかけてきた。「キミはジュライホテルに泊まっている・・え〜と・・え〜と・・何号室だったかな・・」と頭を抱えるような感じで思い出そうとしている。どうも筆者を知っていて何やら要件があるらしいと思ったので部屋番号を告げると「そうだ!422号室だよ!実はその部屋に行こうとしたら君が出てきたんで驚いたんだよ!僕と約束した人と違うからね」と真面目な表情で言う。

しかしこの男の話をこれ以上書いても意味がない。全てデタラメだからだ。ただしこの時に筆者はこの中年男が筆者の部屋番号を騙る誰かに約束を反故にされて可哀想だと思ってしまい、やがて男に即されるまま一緒にシーロムへと歩いて行ったのである。筆者に自分の口で情報を喋らせ、憐憫の情を植え付けさせて仲良くなるキッカケを作る。これこそがこの男の目的なのだ。これは1988年秋のことである。

キミは何処を旅したの?ゴアか・・僕も若い頃行ったよ。へ〜2ヶ月タイに来たのか。内定もらっても喜んじゃダメだよ。会社って自分を殺す嫌な世界だしね。今夜でも僕の家に来なよ。女房に手料理作らせるよなどと、大柄の男は何が楽しいのかニコニコ笑顔を浮かべて筆者に語りかけた後、「キミはバンコクで1人なのか?」と聞いてきた。

いえ・・恋人がいますと答えると、大柄の男は「日本人だろ!だったら尚更彼女を連れて僕のウチに来なよ」と嬉しそうに誘うので「いえタイ人なんです。今から行く日本料理店に勤めているんです」と答えた時だった。男は突然黙り込むとそのまま横道へとスタスタ歩いて行ってしまったのだ。えっ?俺なんか変なこと言った?と不思議に感じたが、思い当たる節はない。一人残された筆者は道端で呆気にとられてしばらく立ち尽くしてしまった。

しかし筆者は大柄の男をその後もチャイナタウンで何度か見かけることになる。ただし筆者に話しかけるどころか、目で挨拶することもなかった。そしていつも筆者と同じく大学生らしい青年と話し込んでいた。一度スリクルンホテルのカフェで席が隣り合わせた事があったが、大柄な男は3人の若者に「◯×のサービスを受けるなら三井だな」と銀行か保険らしき話をレクチャーしているところだった。

この男は旅行者相手の詐欺師か何かではないのか・・だけど大学生のから引ける金なんて多くてもせいぜい10万円くらいである。そのために毎日道端でカモを引っ掛けるのも変だなあ・・と思っていたのだが、後日この男の奇妙な一面をスリクルンのテーブルにいた3人組のうちの一人から聞くことになった。

「アンコールワットに一緒に行こうって言われたんですけど断ったんですよ」と明治大学の学生は言った。1週間の日程で旅費は大柄な男持ちという大盤振る舞い。しかも当時は入国が困難なカンボジア(UNTAC統治以前は内戦状態である)である。それで筆者はどうして行かなかったのか?と聞いたら「だって話が美味しすぎるし、それに他の人から聞いたんですよ。前にあのオッさんと一緒に1週間の予定でカンボジア行った奴がいるけど、オッさんは3日後にバンコクに舞い戻っていたって。そいつカンボジアに置き去りにされたってことでしょ!そんなの危なくて行けるもんですか!」

その後大柄な男とはそれっきりになったが、数年経ってから意外な形で彼の正体を知ることになる。男の本名は田中義三。偽ドルを所有していたとしてカンボジアで逮捕された男であるが、それよりもよど号をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派メンバーと言った方が分かりやすいだろう。香港で定期購読していた雑誌を見た時にバンコクで話しかけてきたあの男だと筆者はすぐ分かった。でもその時にはこの男はバンコクで何をしたかったのかよく理解できなかったのだ。

その答えを提供してくれたのは高沢浩司の「宿命」という本である。ここにはよど号メンバーとその妻たちがヨーロッパで有本恵子など日本人を巧妙に説き伏せて北朝鮮に拉致していた事実が記されていた。そして筆者はロンドンやマドリッドよりもバンコクの方が拉致を実行するのに向いているだろうなと思った。バンコクのチャイナタウンにいる日本人旅行者の多くははみ出し者で基本的には社会制度への反発傾向が強く、それに2〜3年かけてこれから放浪しようという糸の切れた凧のような連中がここには集まっていたからだ。

なおよど号メンバーの動きを調べてみるとヨーロッパで活動していたのは1980〜1983年と筆者の体験よりも5年以上前であり、また田中義三は途中からリーダーの田宮高麿らとは行動を別にしていたとの記述もあるので(ただし田中の妻の水谷協子はマドリッドで二人の日本人男性を拉致した実行犯と言われている)、あれが拉致行動だったとは断言できないが、あの大柄な男が田中義三であることは間違いない。

気になるのは田中義三と一緒にカンボジアに入って置き去りにされた日本人の消息である。小泉訪朝期の一連の拉致報道ではバンコクで拉致された日本人の話は聞かなかったが、おそらくバンコクの日本大使館はチャイナタウンにいる貧乏旅行者の行方などろくに調査もしなかったんだと思う。「海外旅行中に行方不明。本人素行不良」でお終いだ。筆者らはそんな扱いだったのである。

それにしても自分のすぐ側まで希代の犯罪行為が忍び寄っていたのかと思うと身震いしてくるが、一方なぜ田中義三が筆者の「恋人はタイ人。今から行く店に勤めている」という言葉を聞いた途端にプイといなくなってしまったのか今だに分からない。田中さん!あんたは逮捕されてもよど号グループの活動について沈黙を守り、収監中に突然亡くなってしまったけど、墓場から出てきて真相を教えていただけないだろうか。



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スワニーの店「北京飯店」

明日タイを離れるので最後の見納めにヤワラート(チャイナタウン)を歩いてきた。スリクルンホテルからハーレムという格安マッサージパーラーを横目に7月22日広場へとまっすぐ進み、ジュライホテル跡地を左折して台北旅社前をまた左折すると、昔と同じように真昼間から客を引いている立ちんぼの娼婦たち数人から袖を引かれた。それを振り切って十字路を右に曲がってテキサス通りへと入り、通称エレベーター茶室と呼ばれた売春宿跡地を見上げると、なぜか自然と25年前の光景が蘇ってきた。

冷気茶室の娼婦たちとジュライホテルのエロジジイ軍団、ジュライホテルのアイドルだった娼婦のポンちゃんに一休さんと渾名された長期滞在の日本人。ジュライの前で炭火焼きの店をやってたユーピンというオバちゃん。ホアランポーンのソムタム売りのイサーン娘たちにチャイナタウンにたむろする無数のバックパッカーたち。これは筆者の大学生活の最後に彩りを与えてくれた思い出深い人たちである。しかし筆者よりもう5年以上早くココに長期滞留された人なら、懐かしき人として真っ先に楽宮旅社の真下にあった北京飯店の女主人スワニーの名をあげるに違いない。この店は名前は中国風だがれっきとした日本料理店もどきである。ただしエアコンも無い単なるタイの大衆食堂と言った風情だが・・。

筆者が北京飯店の名を最初に聞いたのはインドのベナレスにある安ホテルにいる時だった。夕食の際に一人の日本人と相席になったのだが、この男はアメリカン・ニューシネマに出てくるヒッピーそのものの格好をしていた。もう4年も旅をしていると言う。一方こっちは海外旅行は初めてだしナイキのスニーカーなんか履いてる旅のド素人だからそもそも会話が成り立つ訳がない。それでも何とか話しかけるとヒッピーは「お前インドにはどこ経由で来たんや?」と聞いてきた。バンコクです。あそこで一泊だけしまして・・と答えると、ヒッピーは「そんなら北京飯店に行ったか?おれスワニーの作る料理めっちゃ食いたいねん!」とまるで遠く離れた地にいる恋人を語るような口ぶりで言った。

その後もボンベイ、ゴア、トリバンドラムで出会った日本人のうち、ある一定の年齢以上の人たちの口からは決まって北京飯店の名前が出た。「アサリの味噌汁が美味いんだよな」「あの豚肉と野菜の味噌炒めがいけるんだ」と言った具合で有る。当時バンコクで格安の航空券を買って第三国に渡る旅の猛者たちはチャイナタウンに宿を取り、手持ちの寂しい財布から大枚をはたいてスワニーの店で貴重な日本の味を堪能していたのだという(日本人が経営してるもっと格上の日本料理店に行く金など当然コイツらに有るわけが無い)。もっとも筆者は前の日記に書いた通りロビンソンの成田という店に彼女がいたし、そこまで貧乏では無かったから実は学生時代に北京飯店に行った事は一度もなかったのである。

今から10年ほど前のタイ訪問の際に、昔バンコクで出会った友人たちとチャイナタウンをブラブラしていると北京飯店の前を通りかかったので試しに入ってみることにした。予想した通り薄汚れた店である。カオサン通りに客を奪われ衰退してしまったチャイナタウンのホテル同様に、この店も商売は下降線一直線といった感じで筆者ら以外の客は誰も居なかった。しかし店主のスワニーはもうお婆さんと言って良い年齢だが、まだカクシャクとしていて筆者らが注文した料理を中華鍋を使って手際良くジャーッと炒めてくれる。味は日本のどこにもある定食屋並みには作れているし、有名なアサリの味噌汁は出汁が効いていて実に美味かった。それで翌日も一人で来ては冷奴とビールを頼み、また翌日も一人で来ては焼きそばとビールというように今は過去の遺物となってしまった北京飯店に来るのが何故だか習慣化してしまったのだ。

店に置いてある油の染み込んだ随分昔の漫画本を広げてみると「汚いオマ◯コをむさぼれ」とか「◯×の女はタダでヤレる」みたいな電波系の書き込みとともに、インドのバグワンのコミューン情報やカイバル峠のどこのチェックポイントは気をつけろ・・という書き込みが幾つもあった。時期的には70年代終わりから80年代の始め、つまり北京飯店に多くの日本人の若者が集まって、俺はアフリカから帰って来た、俺はラジャスタンに半年いたんだとか情報交換をしていた時代の物らしい。筆者はそれらの書き込みを読んでいると昔にタイムスリップしたような気分が味わえたし、それに何故かスワニーの店で時間を過ごすのがすごく貴重な事のように思えたのだ。

今から30年以上前に、カブールやテヘラン、カトマンズの安宿に陣取る放浪者たちはスワニーの作る一杯のアサリ汁を毎晩のように夢想し、バンコクに戻ったら北京飯店で腹一杯食うぞ!と自らを奮い立たせ、そしてまた翌日から始まる厳しい旅を続けていたのだ。僅かな手持ちの金で1年2年と旅を続ける彼らにとって、北京飯店というのは絶対的な存在だったのである。しかし日本食が世界中に広がり、また前世代のようなハングリーな旅人が死滅してしまった現在ではスワニーの役割は終わってしまったのであろう。北京飯店は一昨年ついに閉店してしまった。今は「スワニーの店」という看板だけが残っている。

さて最後にスワニーさんに言いたい。数十年にも渡り日本から来た貧乏な若者に料理を作ってくれてありがとう。あなたの店は彼らにとってまさしくオアシスでした。



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タイ製ダイエットコーヒー体験記3

バンコク最大規模のショッピングモールであるMBKセンターへと出向いた。どうもこのコーヒーは薬局が取り扱わない商品であり、健康食品や美容グッズの店なら置いてあるのではないかと思ったからだ。それで3階の如何にも怪しげな店を覗いていると、「ミスター何がお探しなんだね」と007映画に出てきそうな怪しい東洋人といった風情の店主が話しかけて来た。

「このコーヒーを探してるんだ」と写真を見せると、怪しい店主はジッと写真に見入った後でアシスタントの女(なぜかケバい)と何やら話し合った後、ここには無いけど取り寄せて売ることは出来る」と謎のような事を言う。それで一缶220だ、いや180だと値段交渉した結果、5缶で1000バーツ、1時間後の引き渡しとなった。じゃあそこらへんブラブラしてくるよと言って店から立ち去る時に、この店主が「アンタ昔おれの店に来たの覚えてるよ!同じコーヒーを沢山買ってたよな!」と笑う。あの〜・・このコーヒー買うの初めてだし、オッサンと会ったことなんかないんだけど・・・。

ところがである。1時間経ってこの怪しい親父の元に戻ると「ミスター在庫が無かったんだよ」と申し訳なさそうに言う。チェッ!何だよ ヌカ喜びさせやがって。それにこれほどダイエットに効果があるコーヒーならもっと量産をかければいいのにメーカーは何をやっとるんだ!と女房は憤慨し始めたが、筆者はこのコーヒーはちょっとヤバイ成分が入っているんじゃないかと思い始めて来た。

その日の夜にホアラムポーンに行くと果たしてジャンはそこにいた。「あれ〜随分痩せたじゃないの!」というジャンの言葉を終わらぬうちに「もう5缶買いたいのよ!」と図々しく要件を切り出す女房。しかしジャンが言うには、あのコーヒーは非常に入手困難で、頼んでから納入まで2日かかるという。それから大量のオーダーは受け付けないらしい。しかし無いと聞くと何が何でも欲しくなる性格の女房は「だったら友人に娘もかき集めてオーダーすればいいじゃない」と引き下がる気は全くない。スリムになりたいでデブ女の執念を垣間見た思いである。

結局3日後(今夜である)にホアラムポーンに来て受け取りということでジャンに1000バーツを手渡したが、ジャンは正直調達出来る自信はなさそうにだったし 、筆者もこれはヤバイ商品なのではないかとの疑いをますます強めているので購入できない方が嬉しいのだ。しかし女房はマニラの親戚の女(全員デブ)にスカイプ電話をかけ「いいコーヒーがあるのよ!1缶600ペソするんだけど!」と能天気に売り込みをかけている。いいか!俺の金で親戚相手に商売するのはいいが、危ないコーヒーはお前のカバンの中に入れろよ!それから空港で捕まったら俺は他人のフリをして逃げるからな!

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タイ製ダイエットコーヒー体験記2

翌日はクラビに移動する日で、朝一番にコーヒーを飲んだ後空港に向かったのだが、機内でも出てきたスナックに手を出す気にはならず、結局ホテルにチェックインして海岸沿いを長い時間歩いても空腹感は湧いてこない。それでこれはいくらなんでもマズイだろうと思ってイタリア料理店でいつも食べる分量をオーダーしたところ、このコーヒーの第2の現象が現れてきた。腹五分目まで食べると何かムーっとした不快感がこみ上げてくるのだ。最初はアルコールへの拒絶反応かと思ったが、酒を飲まない女房も同じ状況だという。それでせっかく頼んだピザも半分以上残して残してしまったのである。それから第3の効果は異常に汗をかく事だ。これじゃ痩せない方がおかしいくらいである。

クラビやハジャイの食事が不味かった事もあるが、筆者も女房もジャンから買ったダイエットコーヒーを飲んでいた13日間は全く苦しむことなく食事量を半分以下に落とすことが出来た。体重はフィリピンに帰ってからのお楽しみにしているので計測していないが、ベルトの穴一つ分ウエストが縮んだから多分3キロくらいは落ちたと思う。「よしよし!この調子なら旅行期間中に10キロ痩せられるかもよ」と喜ぶ女房。ジャンのコーヒーの最後の一袋が終わったので補充のためハジャイの薬局にコーヒーを買いに行ったところ、応対に出た店員は女房の見せた写真を見るなり「ノー!ウチは扱ってないよ!」と手を振った。

これがハジャイ中の薬局で続いたのである。それで今在庫がないのか?それとも古い製品なのかと聞いて見たが、店員は「ウチには無い」の一点張りで筆者の問いには答えようとしない。中には露骨に嫌そうな顔をする店員もいる。それで仕方なくタイでベストセラーという別のダイエットコーヒーを何種類か買って試してみたのだが、女房の言によれば「どれもこれも役立たず」なだけであった。一体あのコーヒーは何処で手に入るんだ・・・・

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タイ製ダイエットコーヒー体験記1

筆者の25年来の知人でバンコクのホアラムポーン駅前にゴザを敷いて商売をしているジャンに会いに行くと、アンタまた太ったわね!それに奥さんも去年より胴回りに肉がついたわよ!言われた。イサーン人というのは陽気で冗談好きな人種だが、時々グサっと来ることを言うものである。まあじゃんが言っている事は本当で、フィリピンに移住してから家事は全部メイドのラセルに任せ切りの女房は、痩せたきゃ運動すれば良いのに生来怠け者のために体重は増え続けるばかりなのだ。女房はジャンの一言にカチンと来たのか険しい顔つきになったが、ジャンが言った「痩せるのにいいコーヒーがあるのよ。あたし半年で10キロ落としたの」というセリフにすかさず「それは何だ?」と食いついた。

ジャンの説明によれば、体重が減らずに困っていた時にこのコーヒーと出会い、半年で62キロから52キロまでダイエットに成功したという。ジャンに見せてもらった1年前の写真に比べるとナルホド今は随分スリムになっている。この話を聞いた女房は思わず「そのコーヒーあたしも飲みたい」と言い張るので、筆者が頭を下げてジャンに買って来てもらうことにした。

翌日ジャンから受け取ったのはタイ語の他に痩身珈琲と漢字で書かれた缶で、ここにインスタントコーヒー状のパックが26袋入っていた。値段は一缶200バーツである。しかしタイ語の使用説明が読めないのでジャンに説明してもらったところ、毎朝食事の30分前に1袋飲むだけだという。それで早速翌日からスタートすることにした。

翌朝8時に起きてダイエットコーヒーを飲んでみたが、調合に失敗した出来の悪いコーヒーといった感じで、漢方薬や化学臭のようなモノは全くない。本当にこんなもん効くのかね?と思いながら朝の支度をしていたが、1時間もするうちに異変に気がついた。食欲が全く無いのである。正確に言うなら空腹感をまるで感じないのだ。それが昼どころか夕方になっても続くのである。

その晩はバンコク在住の後輩とスクムビットにある日本料理店でひさしぶりに旧交を温めたのだが、後輩が頼んだ博多市場直送の刺身や手をかけた料理を目の前にしても食欲も方は一向に湧いて来ず、女房からは食欲のモンスターとかアナコンダと呼ばれ、回転寿司なら軽く20皿は平らげる筆者がその日に食べたのは刺身数切れと茶碗蒸しだけだった。


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Author by ほにょ / 全記事一覧 / 次のページ / ページトップ
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